グミのことをご飯と呼ぶのはもうやめた
一人暮らしのあるあるで、"食事の優先度が低い"というものがある。コンビニやスーパーで適当にお弁当などを買って食べる、という行為もそれに当てはまるかもしれないが、わたしの普段のご飯はもっぱら"グミ"である。またグミのことを"ご飯"とも呼んでいる。グミと言えば!と言って特定の商品名が出るわけでもないし、味もそんなには気にしないけれど、できるだけ固めで噛みごたえのあるグミであればいいなとは思う。
ただそうは言っても、普通の食事をすることが嫌いなわけではない。友達にご飯に誘われたら喜んで行くし、
お酒を飲みながら料理をつまんでお喋りすることはいつだって楽しい。
それが家に帰った途端、
お腹が満たされたら何でもいい
↓
とりあえずグミ食べよ
に変わる。
そうなる原因としては、ご飯に時間をかけるくらいなら、その時間で映画を観たり本を読んだりしたいというわたしの偏った考えと、そもそもわたしが少食でご飯に量は必要ない、結果グミでいいやとなってしまう。
そのため友達とご飯に行けば「本当に食が細いな」と言われるし、調子がいい日に普通の量のご飯を食べているだけで「お前がご飯食べてる姿が見れて嬉しい」と喜ばれる始末である。
ある日、友達と軽く飲んでからお店を出たあと、帰り道でわたしがポケットからグミを取り出してぱくぱく食べているのを見た友達が「グミがご飯ってどういうことだよ」と言っていたが、わたしが「食べていいよ、一個あげる」と言うと、「ほんとに!? わたしマスカット味が一番好きなんだよね」と言ってグミをもらった友達も大概である。
じゃあグミしか食べないんだね、と言われたらもちろんそうではない。おそばは好きだし、おうどんだって美味しいし、さばの塩焼きだって好きだ。大好きな納豆は一日一個までと決めている。ただ食べる量が少ないから、グミがあれば乗り切れる、ということになるのだが、この前、納豆を食べている時だった。わたしは無意識に、
グミを食べる
↓
納豆を食べる
↓
グミを食べる
という行為をしていたことに気がついた。これはまさに納豆をおかずに白いご飯を食べる行為と何も変わらないことに気がついた。さすがにフルーツの味がするグミと納豆を口の中で一緒に食べることはなく、別々に食べてはいたが、もしもわたしに好きな人がいて、この姿を見られでもしたら、わたしは恥ずかしさのあまり真っ赤になった顔を動力にして地球の裏側に飛び立つことになるだろう。それだけは避けなければならない。一体全体どうしたものかと考える、今日この頃である。
明治よ、森永よ、ブルボンでもどこでもいい。はやく納豆に合うグミを開発してくれ。そう願ってやまないわたしであった。
ちなみに今日のご飯はこれです。
夜野
きみのために風は吹いている そう思えるのはきみのかけがえのない生活が、日々が、 言葉となって浮かんでくるからだと思う きみが今生きていること、それを不器用でも表現していることが わたしの言葉になる 大丈夫、きみはきみのままで素敵だよ 読んでいただきありがとうございます。 夜野