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山岡鉄次物語 父母編2-4

〈 若き日の父4〉徴兵

☆頼正は職を求めて再び上京する。

昭和16年に始まった太平洋戦争で、日本軍はアジアの各地で戦勝し、勢力を拡大していた。
昭和18年頃から米国の攻勢が始まり、日本軍の進駐していた南方の島々では、玉砕や撤退をしなければならない状況になっていた。

この年には、前線視察の際に連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け戦死している。

日本の徴兵制度について調べてみた。

日本における徴兵制は、明治6年の徴兵令制定から本格的に開始した。
徴兵制を主導した山県有朋は国民皆兵を目指したが、免役条項と軍隊定員の関係で、徴兵検査と抽選で選抜されたものが軍隊に入った。
戸主や跡継ぎは免除される為、特定階層のものばかりが徴兵された。
その後免役条項は撤廃される。

昭和2年、徴兵令は兵役法に変わり、服役期間を3年から2年に短縮し、代わりに徴兵される人数を増やした。
多くの兵員に軍事訓練を施し、有事における動員数の増大を図った。
日本軍は大量の兵力獲得を目指し、日中戦争や太平洋戦争では、実際に軍隊に入る人数は増加していった。昭和13年の現役入営は47%だったのが、昭和19年での現役入営は77%となった。

実際は徴兵検査を受けて、各種兵役に割り当てられる。
兵役区分は常備兵役と国民兵役がある。
常備兵役は現役兵と予備役兵があり、現役兵はそのまま兵役に服する。予備役兵は現役を終わった軍人が一定期間服する兵役で、非常時に召集されて軍務に服す。
国民兵役は第一と第二に分けられていた。
第一国民兵役は、常備兵役、補充兵役の期間を終えたものが服役し、期間は40歳までとした。
第二国民兵役は、満17歳から満45歳までの軍隊教育未経験のものが兵役に服する。

日中戦争拡大にともなう動員の際には、規模の大小にかかわらず臨時召集が乱発され、既に召集済みのものに召集令状が届くなど、軍の動員体制維持は破綻していた。

昭和12年における陸軍総兵力は現役兵約34万人、召集兵約59万人だったが、戦争末期の昭和20年になると、現役兵約224万人、召集兵約350万人に膨れ上がった。17歳から45歳の男子国民は根こそぎ動員されたのだ。

昭和18年、日本各地・台湾・朝鮮・満州で学徒出陣が行われた。
大学等の高等教育機関に在籍する学生の徴兵猶予が撤廃された事により、多くの大学生が兵役を余儀なくされた。

昭和18年10月、東京の神宮外苑競技場(後の国立競技場の地)では、東條英機首相臨席で学徒出陣壮行会が冷たい秋雨のなか盛大に行われた。
東京都内77校が参加し、多くの学生は軍靴を泥だらけにして行進した。

太平洋戦争終盤の兵力不足を補うため、大学等に在籍する20歳以上の文科系学生を徴兵し、出征させたことを学徒出陣と云う。
対象は日本人だけでなく、当時日本国籍であった台湾や朝鮮、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。

その後昭和19年徴兵制度の変更により、一般男子が19歳になると兵役に招集されるようになった。

この後、戦争は最悪の状況へと進んでいくことになる。


昭和18年、東京から郷里に戻った頼正であったが、郷里の塩川市には勤めたいと思う職場が無かった。
父浪頼が3年ほど前に手に入れた屋敷は、静かなところに在り、以前の家より広くなったが、頼正の居場所は無かった。
頼正は、自分と兄頼長の辛かった奉公のおかげで、父浪頼は新しい屋敷を手に入れる事が出来たのだろうと思った。

頼正の兄の頼長は既に軍に招集されていた。

頼長はこの翌年、悲惨な戦いを繰り広げたフィリピンのレイテ島で、若い命を散らせる事になる。
ちなみにレイテ戦の日本軍戦力は約8万4千名で、このうち戦死者は約7万9千名、餓死による死者が多くを占めたようだ。

太平洋戦争の当初、日本は米国が植民地としていたフィリピンを占領していた。その時に退いた米軍の司令官がマッカーサーだった。
昭和19年太平洋戦争末期、迫りくる米軍の攻撃に、日本軍は次第に追い込まれていた。
マッカーサー率いる約500以上の米国の艦隊がレイテ島の日本軍を攻撃した。
砲弾の嵐に迎え撃つ日本兵たちは、食料も武器も十分ではない状況で、防戦一方になっていった。
日本兵の3倍以上の米国兵の上陸は、圧倒的に不利であったのだ。

頼長の戦死の報は、白木の骨箱とともに塩川の山岡の家にもたらされた。骨箱の中には石ころがひとつ入っていた。
今も兄頼長の遺骨はレイテ島の何処かで眠っている。

頼正は東京の立川に在る軍の航空技術研究所に勤務していた。
高射砲のレーダーとなる、地上用電波標定機なるものを製作実験していた。
軍の機密に関する仕事は興味があったので、楽しみながら日々を送る事が出来た。

頼正は幸い軍関係の勤めだったので、招集が1年遅れた。
海の輸送を任務とした暁部隊に徴兵されるのだ。

昭和20年3月、和歌山県へ向かう頼正は20歳だった。

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