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山岡鉄次物語 父母編2-3

〈 若き日の父3〉工場勤務

☆頼正の物語を進める。

奉公先で頼正の仕事が無くなったからといっても、まだ約束の年季の期間は残っていた。

横畑木材には頼正と同じ歳の息子がいたが、勤勉な頼正に比べて狡い怠け者だった。
正反対の生活を送っている頼正と放蕩息子の2人は普段から喧嘩が絶えなかった。

頼正は世間知らずな息子の相手をしていてもしょうがないと、配達の途中で、働いている人たちと時々交流があった、アルミ製品の鋳物工場で勤務を始める。

アルミは明治時代に製造法が確立していたが、強度が足りずもっぱら食器や装飾品などの用途に使われていた。

その後、大正時代に入るとジュラルミンなどのアルミ合金が開発され、航空機や電線などの用途が飛躍的に拡大していった。

軍用目的で使用するアルミの増産は、日本の軍事力増強に必須のものとなった。
日本が必死になって生産しようとしたのは、鉄に比べて軽いアルミは航空機の機体材料として、必要であったからだ。

日中戦争以降、総力戦体制が形成される中、アルミは零戦などの機体材料であるジュラルミンの原料として、さらに需要が高まっていた。

日本はアルミ地金を輸入に依存していたが、日中戦争以降には外国からの輸入が滞り、昭和14年には軽金属製造事業法が制定されて、本格的にアルミを含む軽金属の統制が始まった。
アルミ産業を許可制にして、免税や研究助成金で優遇するかわりに、政府の監督下の軍需工場として国防に協力させた。

経済封鎖の中、わずかな輸入と国内の代替原料でアルミの生産を続けてきた日本だが、太平洋戦争が始まるとさらに苦しくなった。

真珠湾攻撃の直後に日本軍が実施した、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の占領は、石油とボーキサイト(アルミを含む鉱石)の確保が目的だったが、日本や台湾のアルミ工場に原料を運ぶ途中で、輸送船の多くが攻撃を受け沈没してしまった。

昭和19年にボーキサイト32万トンを南方から輸送する際、無事に運搬出来たのは5万トンであった。

陸軍ではアルミに代わって木製飛行機を開発する、悲惨な状況になった。

戦後になると、飛行機の生産禁止や価格統制によってアルミの生産は大きく落ち込み、家庭用器具など日用品の需要にこたえるだけになった。


頼正はアルミ鋳物工場を訪ねた。

以前から、この工場で楽しそうに働く若者たちの姿を見かけては羨ましく思っていたので、自分から使って欲しいと頼み込んだのだ。

軍需物資の工場だったので、人手不足もあり直ぐに採用された。
工場では軍の依頼で、大手のアルミ合金会社の下請けをしていた。
アルミ合金のジュラルミンを使い、主に航空機に使う数多くの部品を作っていた。

郷里に帰る為、頼正が工場を辞める頃には、工場の稼働は材料不足でたびたび止まるようになっていた。

鋳物工場での頼正は、同年代の若者たちとの交流が楽しくて、貴重な時間を過ごす事が出来た。

頼正は工場勤務で得た給金は、横畑木材の主人に全て渡していた。

ある日、主人は頼正を呼んで、すまなそうな顔をしながら言った。

『頼正、もう帰っていいぞ。』

この時、約束の3年はとうに過ぎていたのだ。

郷里に帰る日、横畑木材からは手土産ひとつ渡されなかった。奥方の手前、主人は何も準備出来なかったのだ。
お金も物も足りない時代背景がそうさせたのかもしれないが、頼正は非情な人間の存在を情けなく思った。

この時、頼正は18歳、東京へ来てから7年の歳月が過ぎていた。

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