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山岡鉄次物語 父母編9-1

《 成長1》家出とテレビ・訃報

☆5人の姉弟は社宅で生活する他の子供たちと共に成長してゆく。

社宅内には子供がたくさんいた。
頼正の長女睦美を年長に生まれたての赤子までいた。

危険な箇所もあったが、会社の敷地内全域と隣接して流れる自然溢れる川で、子供たちにとっては元気に遊ぶには十分な環境であった。

この頃の社宅の子供たちの勢力図は、睦美が威力を表した訳ではないが、年長者の睦美の存在が大きかった。

睦美を始め幸恵や他家の年長の女の子が子供の世界の中心だった。元気な男の子供たちもいたが、山岡の弟たちは睦美のおかげで誰からも虐められる事なく過ごせた。
時には喧嘩もしたが、同じ境遇の子供たちはみんな仲良しだった。

睦美や幸恵、他家の年長の女の子たちが子供の世界から抜けてから、勢力図は変わった。
次の世代は他家の年長の男3兄弟に対して、少し歳下だったのが山岡の3兄弟だった。
この3兄弟同士は、遊びを兼ねて対立をし、張り合っていたのだ。次男の伸郎は対立する3兄弟の偵察の為、元気に飛びまわっていた。鉄次からみれば頼もしい弟だ。
対立はあくまでも子供の遊びの延長だった。

社宅内のどの家も裕福ではなかったが、共に健やかに成長していった。

昭和36年、頼正と珠恵は子供たちの為に仕事に精を出し、決して豊かではないが5人の子供も少しずつ育って来た。

姉弟5人は超身近な家出をした。

当時山岡の家には、まだテレビが無かった。
頼正の会社の社員詰所には大きめのテレビが置いてあり、社宅の子供たちは夕食後の時間にテレビを見せてもらっていた。

ある日、睦美を先頭に姉弟5人でいつものようにテレビを見に来ていた。
姉弟は当時の人気ドラマ橋幸夫の「おいら次郎長」に夢中になっていて、家に帰るのが遅くなってしまったのだ。
熱心に見ていたのは鉄次の姉で、幼い弟たちは姉に従っていただけかもしれない。

テレビドラマは橋幸夫が主役で、売りだし前の次郎長(山本長五郎)を演じ、颯爽としたヤクザ姿に扮して、次郎長の青春時代にスポットをあてた時代劇だった。
ドラマは午後9時から9時半の放送で、幼い子供にとっては遅い時間となった。

姉弟は家に帰り、中に入ろうとすると、頼正が子供たちの帰りが遅いと怒っているようだった。

結局、家に入れなかった姉弟は、睦美に従い家の直ぐ隣の社宅用共同風呂の脱衣場に入って時間を過ごした。

戸建ての社宅には内風呂があったが、長屋の一軒一軒には内風呂が無かった。
長屋の住民たちは、時間を決めて順番に使い、清掃も交代でしていた。

睦美たちが、家に帰れず共同風呂に入った時間は、社宅の住民が使った後で、誰もいなかった。

夜も更けて寒くなり、幼い弟たちが眠くなって来たので、幸恵は家に忍び込んで毛布を持って来た。

家出と云うよりも家に入れなかった為に、無断外泊をした事になる。
鉄次には、この家出がどのように解決したのか、はっきりした記憶が無い。
良かった事は、家出からしばらくすると、山岡の家にテレビがやって来た事だ。この頃の社宅ではテレビを買う家庭が増えていた。

この時の一般的な白黒テレビの価格は14型で約56,000円だった。ちなみにカラーテレビは30万円もした。頼正の月給は定かではないが、平均月収が16,000~20,000円ぐらいの時代、当然、月賦での買い物となった。

この後、頼正と珠恵、5人の姉弟は悲しい知らせに涙する。

山岡の家に悲しい知らせが届いたのは、鉄次が小学1年生の時だった。
鉄次は小学校入学の時に、頼正の直ぐ下の弟正実にランドセルを贈ってもらっていた。
頼正の兄弟の中でも、正実は際立って物静かで優しい叔父だった。

その叔父さんが亡くなった。

正実には真剣に結婚を考えている女性がいたが、塩川市の父親には頑強に反対されていた。
正実は農薬を飲んだ。

本人の心は計り知れない。服毒を選んでしまったのだ。
現在なら、親の反対ぐらいで悲観しない、駆け落ちという方法もある。当時はまだ封建的な世情だった事もあった。親を裏切れない誠実な性格も関係したのかもしれない。残念というには悲し過ぎる選択だった。

頼正家族は、時々笑顔で現れていた正実の訃報に、悲嘆にくれた。

姉たちは「正実おじちゃんが・・」と涙し、まだ人の死を深く理解出来ない鉄次は、ランドセルを抱いて泣いていた。

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