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【まさかの因習村モノ?】アニメ映画『好きでも嫌いなあまのじゃく』感想・レビュー

はじめに

私の名は、ツユモ。
恋愛アニメ映画マイスターである。

『好きでも嫌いなあまのじゃく』は、『泣きたい私は猫をかぶる』や『雨を告げる漂流団地』を手がけたスタジオコロリドが制作したアニメ作品であり、5月下旬よりNetflixでの独占配信に加えて全国の一部映画館でも上映されている。

もともと『泣きたい私は猫をかぶる』の大ファンであった私は、情報初出時から公開の時を心待ちにしており、喜び勇んで映画館に足を運んだ。

…のだが、結論から端的に言うと、映画が流れている間ほぼずっと、

の顔になってしまう作品であった。
これは単純に私の理解力が低いから起きた問題なのか、作品自体の問題なのか、客観視する意味も兼ねて頭を整理しつつ感想を書いていきたいと思う。

よかったところ

先に言っておくと、「ふざけんな、時間返せ!」という気持ちになるような内容では決してなかったし、ふわっと雰囲気だけ掴めば「まあ良い映画だったな〜…」となるタイプの作品ではあったので、まずは良かったところから振り返っていこうと思う。

だいぶ浅い着眼点ではあるが、最初に思い浮かぶのは今作のヒロインであるツムギの愛らしさである。バスでお金を探しているときや、お守りを無くしたかと思って服をひっぱるときなど、全体的に動きが子供っぽく無邪気に見えるよう演出されていて、「そりゃ柊くんも心撃ち抜かれて守りたくなるよね…」という説得力が非常に出ていて良かった。

またキャラデザの面でも、水色とピンクのグラデがかった髪色で、眉やまつ毛の色も薄く、ピンク色の鬼の角がおでこの片側にだけ生えている、というオタクのフェチズムを詰め込んだかのような、一発で記憶に残るレベルの濃い味付けをされている。

つい最近鑑賞した『トラペジウム』の主人公・東ゆうが「アイドルもの」のアニメ映画の主役のキャラデザとしては信じられないくらい特徴の薄いフラットデザインだったので、映画館でポスターが並んでいたりするとその見た目の個性の強さもより際立って感じた。

トラペジウムの場合はむしろこのキャラデザが、東ゆうの「何も持っていない女の子」であることを強調していて素晴らしいのだが、客席の埋まり具合の違いを見ると「まあ一般的にアニメ映画を観に行く層が求めるキャラデザってツムギの方だよな…」と思わせるキャッチーさがあったのは事実である。(それでも私は東ゆうが大好きだ!!!!!)

あとはこの作品、エンドロールへの入り方がとても良い。
これまで頼まれごとを断れず自分の本心を押し殺して生きていた柊が、「ツムギのそばにいたい」というエゴを押し通して成長する、という作品全体を通したテーマがありつつ、結局一連の事件の中で恋愛関係までには至らなかった二人が少し時間を空けて再会し、「好き」という想いをどちらが先に伝えるか互いの言葉を制し合う、というすごく甘酸っぱい場面で終わる。
しかも実際に告白する場面までは映さず、後は観客の想像にお任せする引き際の潔さも素晴らしく、「そうそう、恋愛アニメ映画に求めているのはこういうのなんじゃよ!」と流石のマイスターの私も腕組みしながらニッコリする終わり方であった。(ちなみに『サイダーのように言葉が湧き上がる』のエンドロールへの入り方も最高じゃぞい!)

悪かったところ

逆に悪かったところを一言で述べると、物語全体を通して「感情や状況の整理が追いつく前に、次々に展開が先に進んでいってしまいがちなこと」だと感じた。

今作は「少年少女の一夏の冒険」という青春アニメらしい題材なのだが、そもそも前提部分の「冒険が始まるきっかけ」が飲み込みづらい。

具体的に言うと、化け物に襲われてベランダから慌てて逃げ出したまま、いったん家に帰るなどもせず、いきなり無計画に冒険を始めるところである。

観ている間ずっと、
「ツムギの母親探しに付き合うために日枝神社まで行く」のはわかったけど、なんでコイツらそのままの足で向かってるの!?
「遠い」ってわかってるんだったら一回家帰って荷物まとめるとか、自転車で行くとか、家族に手紙残しておくとか、色々準備することあるでしょ!?
ボス戦前に装備とか整えないタイプなの!? 行動力と衝動性の塊か!?!?!?

というノイズが気になりすぎて、せっかくの冒険のワクワク感がかなり削がれてしまった。
ツムギはともかく、柊は思慮深くて勉強もできるタイプとして描写されていたし、「もう高一なんだからそんな後先考えず行動するなよ!」というツッコミどころが凄かったのだが、これは私が老いて少年心を失い大人目線になってしまったからだろうか…

一応柊に関しては家庭での父親の教育方針や、学校での人間関係に嫌気がさしていて半分家出という意味も込みで旅に出る…という背景設定はあるものの、客観的にはそれほど深刻な状況にいるようには見えないし、「帰宅すらせず、学校も休んで、着のみ着のまま徒歩で目的地に向かう」と言う無鉄砲すぎる行動をフォローするには弱すぎる。
鬼が人間界にいられる時間が限られているとか、神社で母親に会えるのは決められた1日だけとか、何かひとことでも「一刻も早く辿り着かないといけない理由」が提示されていたらもう少し感情移入できたと思うんだけどなあ…

また、目的地である神社までの距離感が、柊の「すごく遠い」という言葉でしか表現されないので、徒歩で着く距離なのか交通機関を乗り継いでいく場所なのか何日くらいかかるのか検討もつかない状態になってしまっており、どの程度の覚悟で、どういう想いで柊がこの旅をしているのかよくわからないのも残念だった。
「何の準備もせず突発的に大冒険をすることになって、行く先々でいろんな人の温かさに触れるロードムービー」という前半の内容自体は『すずめの戸締まり』と共通する部分もかなり大きいのだが、このあたりの説明不足感で今作はかなり損をしているように感じてしまった。

また、「大人目線」で引っかかった部分で言うと、化け物に襲われツムギが怪我をして、さらに発熱してしまい旅館に泊めてもらう場面が挙げられる。
強い口調で二人の素性を問いただす女将さんに対し、柊は旅をしている事情を頑なに伝えず、「自分は何でもするので、ツムギが良くなるまでここにいさせてほしい」と懇願する。最終的にその意志の強さに女将は折れて「アッパレ」といった感じで、二人の滞在を認めてあげる展開になるのだが、いや冷静に考えて「アッパレ」ではなくないか…?

そもそも、女将さんの言う「ここも客室だから泊めるのはタダじゃないし、素性もわからない子供を泊められない」というのは大人として正しい判断すぎる。
柊もツムギの容体が不安なんだったらいったん旅をやめて救急車を呼ぶなど解決策はいくらでもあったと思うし、柊の「ツムギを大切に想う意志の強さ」というよりも「普通に他人に迷惑をかける図々しさ」の方が印象に残ってしまった。(ここもやっぱり「一刻も早く神社に行かないといけない=旅を中断できない理由」があるだけで印象違ったと思うんだけどな…)

さらにモヤモヤするのが、この前半部分で出会う優しい人々の存在が物語全体として見たときに特に活きてこない点である。
一応、ツムギがこういった人々の優しさに触れ、「もっといろんな世界を知っていろんな人に会いたい」という想いを抱くきっかけにはなったものの、そもそも人間に不信感を抱いていたとか、やりたいことが無くてくすぶってたとかでもないし、エンドロールで「二人で旅に行こう!」みたいな展開になるわけでもないので、はっきり言っていてもいなくてもさほど問題ない人たちだと感じてしまう。
特に結構尺を取って描いていたフリーマーケットの兄妹などは、おそらく妹から兄に対して何か特別な感情を抱いている?かのような繊細な描写をしておきつつ、化け物に襲われてほぼ挨拶もなく二人と別れ、その後一切出番が無かったので、ただただ困惑してしまった。
無計画さゆえに色んな人に迷惑かけているし、「出会って終わり」ではなく、エンドロールなどで旅の道中で会った人たちに柊が父親と一緒にお礼に行く場面とかもあったほうがスッキリしたと思うが、ここまでいくと好みの問題なので話題を移そうと思う。

次に気になったのは、やはり物語後半の“隠の郷(なばりのさと)”での一連の出来事の意味不明さである。

正直自分の中で咀嚼しきれていないので、ぜんぜん解釈が間違っていたら申し訳ないのだが、おそらく時系列順に出来事をまとめると以下の通りである。

ツムギが3歳のときに母親は村のいけにえとして仮面をつけて、鬼ヶ島に幽閉される
→「何で私ばっかり」「一人にしないで」という母親の悲痛な叫びがユキノカミ(=仮面の化け物)を使役して、鬼や鬼になりそうな人間を襲い始める
→柊もユキノカミに喰われてしまうが、ツムギを恋しく思う心がツムギ母の心と共鳴してなんとか助かる
→ツムギと柊再会。母親の事情を知ったツムギは柊を危ない目に合わせたくないという想いから彼を閉じ込め、一人で鬼ヶ島に向かい、仮面の破壊を決意
→鬼ヶ島にたどり着いたツムギ、母親の仮面に触れたことでその精神世界へダイブする?
→母親との再会を喜んだのも束の間、なんか大雪崩が起きて生き埋めになる?
→さらに自身の精神世界的なところで、柊の残した足跡を辿ることで脱出する(時を超えて二人の出会いの場面で柊がツムギを助けたきっかけのシーンに繋がる?)
→柊もツムギも母親もなんか助かってハッピーエンド

終盤の方はなんか抽象的な描写が多くなるうえに、前半のロードムービー部分と全く関連のない話が怒涛の勢いで展開されるので、前に起きた出来事のキャッシュが残った状態で次々に情報を入れられて、ついていけなかったというのが正直な感想である…

そもそも根本にある問題として、鬼という種族がどういう存在なのか、人間界とどれくらい距離を置いているのか観ていてもよくわからない。
説明があるのは、「本心を隠して生きる人間の体からは小鬼が出るようになり、それが行き過ぎると鬼になってしまう」ということと、「ツムギのように生まれながらの鬼もいる」ということくらいである。
本心を隠して生きる(=社会に馴染めない)人々が集落を作って生きる場所という意味では『泣きたい私は猫をかぶる』で登場した「猫島」に近しい概念なのかなと思いつつ、今作では鬼と人の違いが「角が生えているか否か」しかなく、しかも「一般人には角が見えない」という設定があるので、なぜ身を寄せ合って隠れるように生きているのか理解に苦しむ。
中盤にある「柊が鬼になってしまった」という描写もどういう気持ちになればいいのかよくわからないし、「仮面を壊すと郷を隠している効果がなくなる」というのも危機感がよく伝わってこないので、ずっと「ほえ?」という感情で画面を見つめるしかなかった。

完全に余談だが、「物語後半からヒロインの生まれ育った人里離れた謎多き集落に向かう」という展開で『変な家』と同じじゃん…という感想を抱いてしまった。(ツムギの母親が行方不明になっていたのも、村の因習でいけにえ的な存在?になっていたからということが明かされるので、余計に重なって見える)

ほかにも言いたいことはたくさんあるが長くなってきたので、箇条書きで書いておく。
・物語中盤でツムギが柊に渡したお守り、絶対キーアイテムになると思ったら別に何もないんかい!
・「ユキノカミに喰われた人はおそらく死んでない」って言ってたけど、最終どうなったの?助かったの…?
・終盤柊がやったことって「ツムギの元まで駆けつけただけ」なので、もっと主人公らしい活躍が観たかったよ!

いろいろ文句を書いてしまったが、私の期待値が大きすぎただけで、決して悪い作品ではないし、何よりあの名作『泣きたい私は猫をかぶる』を生み出したスタジオコロリドを応援したいので、気になった人はぜひ映画館に行って欲しい。
…が、まあそんなにこだわりがなければ『トラペジウム』の方をお勧めする…と締めくくろうとしたところで気づいたのだが、
『トラペジウム』と『好きでも嫌いなあまのじゃく』って脚本の人同じなのね!?

▲ 脚本家・柿原優子氏のWiki

おそらく発注された時期は全く違うと思うし、『好きでも嫌いなあまのじゃく』の方は監督も務めている柴山智隆氏も脚本名に入っているので多分その方が主体で物語制作されていそうだが、こんな公開時期もろかぶりなことあるんだな…という驚きとともにこの記事を閉じたい。

あ、一個言い忘れた!
序盤で、柊が祭の夜にクラスメイトの女子の彼氏のフリをすることになる展開があったけど、普通に考えて好感度低い人間に恋人のフリなんて頼まないので、あの女の子多分めちゃくちゃキミに脈あると思うぞ柊くん!!
あと、その場面を「意志が弱くて頼まれたら断れない不幸な性格」を強調するかのごとく使うの、自虐風自慢っぽくて好感度落ちるからやめといた方がいいぞ、柊くん!!


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