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歌舞伎とは如何なる演劇か その壱

演劇・祭り事・政

 「政」と書いて、「まつりごと」と読みます。

 「祭り事」の意味で、昔は祭りと政治が一体であったためです。

 「祭り」とは、神を祭ること。
 神霊を慰め、崇めること。
 一神教における神と違い、日本では八百万の神が祭られます。

 そして、一般的に演劇は、古代の宗教的祭祀が発展したものと考えられています。
 宗教的祭祀以前に行われた、遊戯を起源とする説もあるようですが‥
 いずれにせよ、古代より、祭りと政治と演劇は、同じ根から分かれたものと考えられ得る親炙性を持っている、そのことは間違いないでしょう。

 そう考えれば、一般的な西洋近代演劇の目指した方向よりは、祝祭的で、鎮魂性の色濃い、日本の古典芸能の在り方の方が、より根源的な演劇の性質を残している、と言えなくはありません。

 ただ、近代的国家誕生の中で、人間の在り方や政治の在り方が西洋を中心として模索された中、演劇も、祭祀的側面だけにとどまっていられなかったのは当然のことでしょう。社会や政治の流れとともに演劇が近代国家の中でいかに在るべきか。近代演劇はどうあらねばならないのか、そうしたことを模索していく流れは、時代的にいって、必然であったと思います。

 さらに現代に入り、社会や政治の在り方も、新たな方向性を見いださなければならない時代に入ってきているように思います。
 その方向性は、決して混沌としているわけではない。
 けれど、それがどのように実現されていくのか、どのように実現していけるのか。それは、まだ混沌としていて、暗中模索の状態であると言えるかもしれません。
 それが、また、歌舞伎や伝統芸能をはじめ、今の劇界に反映されているのだと、私は思います。
 そしてそれは、恐らく洋の東西をとわず、今の演劇や映像周辺の現状であるように私には思えます。

演劇と民主政

 これからの時代をどうするべきなのか。
 混沌としているのは、世界的に間違いはないとしても、「状況に流される民族性」をもつ日本は、特に、改めて自分たちの現状を客観視する必要があるようにも思います。
 そうした客観的な視点を通して、はじめて、伝統の中に「故きを温ね」、新しき世の中の在り方を考えていけるのではないでしょうか。

 祝祭性を越えた演劇は、民主政治が成熟していない共同体では、発達しないのではないか。その意味するところは、演劇には、民主政治の維持発展に欠かせない洞察力を養える要素があるということだと思います。
 演劇を通して、世の中の在り方を掘り下げていく事が出来る民衆がいる。そうした成熟した民衆がいることが、民主政には欠かせないのではないでしょうか。

 そうした要素が歌舞伎にもあるのかないのか。その歴史の中に見いだせるのか、見いだせないのか。そうした視点で、歌舞伎を考え直してみることは、「日本の政治の在り方」を考える上でも、大変有効だと、私には思われます。

 話は飛びますが、ドラマや映画で大ヒットした『踊る大捜査線』シリーズの最後の作品。そのインタビューで織田裕二が、その作品のその後こそが本当に描かれるべきことではないか、というようなことを言っていたのが、記憶にあります。
 私も、その指摘はもっともなことだと思いましたが、続編は作られそうにありません。
 『半沢直樹』も、本当はこれからが一番描いて欲しい、見応えがある段階になるはずだと思いますが、続編は出そうもありません‥

 今の日本のマスメディアは、「為政者は権力を振りかざす悪、民衆は善良なる弱者で被害者」とういう、しばしば現実を見ないズレた視点や感覚で小人の正義を振り回すだけに終始しているように、私には思われます。
 問題のありかをあぶりだす事の出来る客観性が圧倒的に欠如し、情緒に流されるだけの報道が、横行している、というより主流のように思われます。
 悪気はないけど、噂話が大好き。情には厚いけれど、以前自分が言っていたことに責任をもつことはない。というより、何に関してどう言ったか、何故騒いだのかさえすぐ忘れてしまう。そんなオバサン達の井戸端会議的次元の報道が主流とさえ、私には思われます。

 「どうして?」
 「みんな言っている」
 報道の最前線においてさえ、こんな次元で報道がなされているように、私には思われます。
 責任ある報道を提供すべき記者の評論も、オバさんの話以上に傾聴に値するものが、どれほどあるのか。僭越ながら、海外の報道のよう客観的事実を正確に報道しようとする姿勢が日本のマスメディアにもあるとは、多くの場合とても言えないのが現状のように思われます。

日本なりの知恵や美学の中に見いだす日本型民主政

 世論に耳を傾けることは大切ですが、報道に携わる方々に、民衆をリードしていくべき、真に民衆がかつぐべき輿論を醸成する思想や正義感があるのか。
 そうした報道をしようとする姿勢や視点が、根本的に欠如しているように、私には感じられます。
 こうした輿論を醸成する視点がマスメディアにないから、ドラマにおいてさせ、次の段階に問題の意識が向かい描かれるだけの土壌が、日本人のなかに育まれないのではないか、と私は思います。

 日本では、西洋のように、論理的に言語化された哲学や思想が発達してきたとは、言えないでしょう。問題解決のために論理的に議論を積み上げていくことも苦手です。
 日本において「話し合い」というのは、問題解決のために客観性を持って議論することではなく、しばしば、いかに共感を得ていくかということが優先されます。むしろ、それに終始しているようにさえ思われます。だから、話し合いの中身が大切なのではなく、何時間話をしたか、何時間話を聞いてくれたかが、重要になってくるのだと思います。

 共感型の「女性脳」的問題解決の方法が優先される社会であることは明らかです。

 ただ、そんな「女性脳」的国民性の中にも、西洋文明を取り入れる土壌を時間をかけて育み、大いなる「知恵」を補強してきたから、現在の日本があるのも、また事実だと思います。

 歌舞伎をはじめ、日本の伝統芸能を考察していくなかで、無意識の中の「日本人の知恵」や「美学」をが明らかにする。
 故きを温ねることによって新しい可能性も見えてくる。そうした思いを込めて、私なりに歌舞伎を分析してみたいと思います。
                      2023.8.13

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