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自分が「空気になる感覚」を、大人になっても忘れないために。

どさり。

洗い立てのシーツの上に、体を無造作に投げ出す。アメリカの「幸せな家庭の匂い」ことダウニーは我が家では採用されていないので、鼻の先に佇むシーツからは特にフローラル香りは漂ってはこないものの、昼過ぎの日差しが窓から差し込み、なんとも言えない微睡の時間が訪れていた。

時計は正午の手前を指していた。

今日は水曜日なのだけれど、自営業になってから3年目を迎えようとしていた私はたまたま仕事が入っていない日だった。その実態は、ある意味ふって湧いた休日とも言える日だった。

1分ぐらい無造作な体制のまま体をマットレスに預けていると、徐々に自分の輪郭が溶け出していくのが感じられた。あらゆる思考が消え失せ、筋肉はだらしなく瓦解し、ついには差し込む日の温度を感じながら、空気の大きなうねりだけが肌を撫でていく感覚に身体が一体感を増していく。

側から見ればただのダラけた女でしかないのだが、自己認識としてそれは限りなく自分が「空気」に近づく唯一無二の瞬間であった。そして何より、私はこの「空気になれる時間」がたまらなく好きだった。

今日はそんな「人が空気になる瞬間」について話したいと思う。

存在感を出すばかりの社会で

まるで空気みたい。

そう聞いて、あまり良いように感じる社会人は少ないのではないだろうか。大人になったらやれパフォーマンスだ、やれ成果だ、やれ威圧を出せと葉っぱをかけられて、どちらかといえば「存在感を出す方」が処世術と言われることの方が非常に多い。

周りに舐められないようにと髪型を刈り上げにしてみたり、ルージュの口紅に加えて革製のピッチピチスカートを履いてみたり、はたまた高級品で身を固めてみたり。

本当に好きでやっている人もいるだろうが、大半の人は自分の強さとか可愛さとか、はたまた賢さとか。それは何か一定の印象を「その場で強く押し出すため」の努力であり、同時に私たちが大人になるにつれて矯正されてきた振る舞いのようにも思う。

むしろ「存在感ないですね」と仕事場で言われたら、私たちは焦るか困惑するのだろう。

評価されるのはいつだって目立っている人の方で、誰がどんな仕事をしているのかなんて直属の上司でも全てを把握なんてしきれないのは当たり前だ。だから少なくとも「こんな感じでめっちゃ活躍してます!自分!!!」という主張をすることは、この評価社会においてある程度コスパの良い自己表現とも言える。

ビジネスの現場で「わかってくれ」「察してくれ」なんて通用するわけがなく、なんなら恋愛市場においても己の言葉足らずが災いして「言ってくれればよかったのに…!」と文句をつけられることもあるだろう。

しかし身体が溶け出す瞬間を思い出すと、ふと「存在感を出す」というのは些か危うさを伴っていることを痛感する。何せ存在感の演出というのは「全身で気を張る行為」に他ならないからだ。

存在感を消していた頃

幼稚園生の頃、私はセルフ神隠しが上手かったように思う。

親や先生からすればたまったものではないかもしれないが、私は園庭の隅っこでダンゴムシを収集し続けたり、ウサギ古屋の裏にあるトタン板の隙間にどれだけ入れるかという遊びに興じていた。木に登ればどこまで上に行けるかに真剣に取り組んでいた(今思うとよく死ななかったなと思う)

それと同時に、わたしは集合時間に遅れてくる常習犯でもあった。

わたしは幼稚園内の誰も寄り付かない、行き止まりの非常階段前を秘密の隠れ家としていた。その場所は程よく外の騒ぎごえが遠巻きに聞こえて、ひとりぼーっとしたり心地よくうとうとできる場所だった。そしてその場所にいるときは、その時間だけは、わたしは自然と空気と一つになった。

私はその時間がすごく好きで、そこに居るとあっという間に時間が過ぎた。一人で折り紙をしたり、絵を描いたりした。そして気がつくとクラスの集合時間を大幅にすぎていたのだ。まじめな姉とは真逆の妹に先生はいつも呆れ顔であったが、母は藩を押したように「この子はユニークなので」と私のメンツをいつも保ってくれた。

教育と規律を第一に学ぶ幼稚園に通うのが自分の性格に対して合っていたのかはいまだに謎が残るが、処世術を学ぶという意味では悪くない選択であった気もする。そしてその園を卒業して小学校、中学校と進むたびに私は「空気になれる場所」をずっと探し求めた。

義務教育はどうにも息苦しくて、生理的に合わなかったように思う。特に人間関係の近さや虐められないための振る舞いというお作法にはどうにも吐き気がしたが、集団で生きて行くためには「演技をしなければいけないんだな」という人生の教訓を嫌でも学んだ。

毎日、早く家に帰りたくて仕方なかった。

小学校の休み時間は比較的自由な振る舞いが許されていたので、わたしはやはり自分だけの休憩場所を見つけて、木の上で遊んだり虫を取った。クラスの女の子たちはみんな教室で遊んでいるので必然的に男友達が増えたが、学年を重ねるごとに冷やかされるようになったのでやはり一人で遊ぶことの方が多かった。

なぜか人並みに友達はいたけれど、やはり休日も一人で探検に出かけるのが好きだった。友達に「連れて行ってよ」と言われて渋々と秘蔵の抜け道へ連れて行ったのに「汚いしつまんない」と言われたのは本当に心外だったので、内心「もう誰も連れて行くまい」と思った。

今となってその一人の時間は、集団生活にあまり馴染めなかった自分を自浄するための、空気になる時間を確保するための本能的な防御行動だったのかもしれない。

空気でいられない社会人

ところが大学を出て就職して、すっかりそれどころではなくなった。死ぬほど存在感を出すことが美徳とも思える文化を代表するような会社で「社会人」にならなければいけなくなったのだ。

私は新卒でデザイナーとして採用された。

そしてそこは同期の間で明確にランキングが付くぐらいの激しい競争環境にあったので、少々臆病だった私も感化され、最終的には「全員ぶっ殺してやる」ぐらいの気持ちで毎日オフィスに出社するようになった(あくまで気合いの比喩である)

しかし毎日「私はここだ!」とスーパーマンバリに主張して、できることなら不安も弱みも綻びも見せてはいけないと思っているのだから、心身への負荷は相当に高かった。自分が求められている(と妄想していた)理想的で、頼り甲斐のある、もしくは愛され甲斐のある「何か」をオフィスにいる間はずっと演じなければいけないと思い込んでいた。

そんなことを何年も続けていると、自分でも頭も体もあっという間に摩耗して行くのがわかった。

そして土日になると私は擦り切れた紙切れのように、ワンルームの狭い部屋でひとり虚な時間を過ごすしかなかった。それは決して以前のような空気と一体化する穏やかで心地のいい時間ではなく、腹の奥底に溜まり続ける黒いヘドロを押し込めながら、どうにも動かない体を必死で回復させているだけの消耗的な行為であった。

私はずっと何かに怯えて、そして何かを演じ続けていた。

自分の値付けと焦り

それは転職しても変わらなくて、自分の市場性というものを自覚してむしろ悪化したように思う。自分がこの社会でどんな値付けをされるのか、給料という数字で弾き出されてしまうのだからこれほど怖いことはない。

それもあってか、わたしは本業へ打ち込むことはもちろんのこと、同時に副業を本格化させてとにかく自己研鑽に時間を注ぎ込むようになった。

当時は本業と並行して、最大で5社と同時並行に仕事をしたこともあった。無茶な部分もあったし全てがいい条件なわけでもなかったが、幸いにも出会いには恵まれた。そして本業にはない経験が積めたし、同時に本業にも活きることが増えていった。

もちろん稼働に比例して稼ぎは上がった。時間稼ぎのためのタクシー利用と外食が増えたものの、あまり遊ぶ暇もないのですっからかんだった貯金が少しずつ増えていった。

実態は、息を吸う間もないような日々であった。

朝起きたら慌ただしく支度をして家を出て、午前中に打ち合わせを終えてからそのまま出社。仕事をこなし、ランチは10分で済ませて残り時間は副業に充てる。そして定時までしっかり働いたらタクシーに飛び乗って、次の副業先のMTGへ。そこから帰ってきたら深夜まで別の副業。ほとんどの土日も、副業と本業のインプットに明け暮れた。

わたしは工場の機械のように、自分の仕事を全速力で処理し続けていった。

転換期を迎える

そして約2年半前の春、わたしは会社から独立をした。

独立直後は緊急事態宣言の一発目最中ということもあり、自分の仕事がどれくらい不安定になるのか、今後の収入の上げ下げがあるのか皆目見当もつかなかった。なのでわたしはその恐怖に怯えて、受けれるだけの仕事を詰め込んでしまったのだ。

本当は教育事業を立ち上げるための準備時間を確保するための独立であったのに、よくあるフリーランスの本末転倒パターンに見事に陥っていった。しかし有難いことに仕事に困ることはなく、むしろお断りしなければいけないぐらいのご依頼が続いて徐々にその恐怖からは解放されていった。

コツコツ稼いだ事業収入は感染症のこともあって使う場所が全くなく、淡々と貯金とインデックス投資を続けた。そしてしばらくして、それを心の担保に仕事をごっそり減らした。

今度こそ、事業作りに専念するためだった。

これは本当に不思議な経験だった。やることは多くはないが、考えることがたくさんある状態になった。事業の理念、実施方法やPR戦略、予算の使い方まで抽象的なことも具体的なこともひっくるめて毎日頭を巡った。その裁量が全て自分にあるという一種の快感と、やはり頭の隅にチラつく「怖さ」みたいなものから必死に逃げようとして、とにかく手を動かした半年だった。

有難いことにリリースが上手くいって、規模は小さいが安定した運用軌道に乗った。それがわかった途端、私の心身はふにゃふにゃに溶け出して液状化したように部屋に離散していった。

それから私は3ヶ月ちょっとぐらい、ただの空気になっていた。数年にわたる緊張とオーバーワークの反動に違いなかった。

空気に戻ることを思い出して

今思えば、心の全身骨折だったのだと思う。

気力という気力が霧散して、体はいたって健康なのに何もできないようにしか思えなかった。わたしは体に鞭を打って超最低限の仕事をこなしながら、ひたすら家の中でダラダラし続けた。時には散歩に出て、平日の自由という背徳感に興奮を覚えたこともあった。

しかし休めば休むほど、心はみるみる回復していった。

そして心が回復して時間ができると、自分の語感と視野と、ついでに思考がぐんと広がるのを感じた。その朝の空気の匂いや、肌を撫でる湿度のうねりを感じた。歩けば道端の草花の名前を思い出した。白米はちゃんとゆっくり噛むと、すごく甘いことを知った。誰かのイライラや不安を、画面越しでもヒシヒシと感じ取れるようになった。

自分の中にある野性の勘みたいなものが、ようやく戻ってきたように思えた。

そうすると面白いことに「本が読みたいな」とか「あの仕事を受けたいな」とか、自分の事業に関しても「新サービスでこんなものを出したら面白いのではないか」と沸々とアイディアが湧いてきて、もれなくワクワクも湧き出てきた。長い冬を超えた土の下の種のように、私は自分の思考が一気に芽吹き出すのを感じ取っていた。

空気になるということは、わたしにとって心のエネルギーをタンクに貯める行為なのだと思う。そしてそれがひとたび枯渇すると人は作業を「こなす」ことしかできなくなってしまい、新しいことや挑戦することに「簡単に骨を折ってしまう」ようにも思う。

そのタンクは人によって様々な形をしていて、補給されるものも人それぞれだ。それは誰かとの会話だったり、激しい飲み会だったり、時に綺麗な景色を見にいく旅行だったりするのだと思う。

それがわたしにとって「一人で空気になる」という、なんとも地味でだらしないものだったということに気づくのに、どうやら生まれてから30年以上かかってしまったらしい。我ながら随分と手間のかかる心身である。

わたしは社会人9年目にして、今の自分にとっての「アクセル」と「ブレーキ」の掛け方がようやく分かりかけている。そして自分の中で「空気になる」という行為が果てしなく神聖で、万能なものだという実感と自信を強く握りしめている。

どこまでも遠く、果てしない道のりがまだ随分と残っている。

時に120キロでぶっ飛ばしてもガス欠したりオーバーヒートしないために、わたしはこれからも路肩の駐車方法を学び続けなければいけないし、こまめに最寄りのガソリンスタンドの位置を知っておかなければならない。

そうしてわたしは今日もひとり「空気になる練習」をしたたかに続けるのだった。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃