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負の感情はどこへ逝くのか

(わたし、怒ってたんだな)

とある夕刻、わたしはひとりコーヒーを片手にふと自覚した。つい先ほどまで、チリチリと音を立てて脳を周回していた怒りとも呼べる感情が、線香花火が落ちるようにジュッと消え失せたのだ。

それと同時に周りの雑音も消え失せ、自分の頭にある思考モードのスイッチがガコンと切り替わったことが理解できた。わたしはカップに残るコーヒーを胃に流し込んでからシンクに放り込むと、そのままソファーにどかりと座り込んだ。

つい先ほどまで燻っていた私の怒りのような何かは、まるで最初からなかったかのように萎んで消えてしまった。

しかし心のどこかに残る感情の焦げ跡はザラザラとした質感を残したまま消えることなく、確かに「自分は怒っていたはずだ」という空想のようなものだけがポッカリと脳に残るのだ。

わたしの怒りや嫉みはいつもどこから来て、どこへ逝くのだろう。

頭の中の焦げ跡を指先でざらりと撫でてから、彼らの居場所を探るため、わたしはまたパソコンを開いて不意にこの文章を書き始めたのだった。

感情の取り扱いと読書

自分の文章を読み返していると、ふと気付かされることがある。それはわたしが「こんなにも感情的な人間だったのだ」ということだ。

とりわけ最近連載を始めたマガジン「令和DINKs、迷いながら親になる。」ではその荒ぶりがむき出しの感情がそのまま、ザラザラとした手触りを残しているから、自分で読み返しても呆気に取られることが間々ある。

何せ、近年のわたしの評判は「機嫌がいい人」らしいからだ。

確かに近年、仕事においてもプライベートにおいても、誰かに声を出して怒ったり、不貞腐れてブスッとしたまま椅子に居座り続けたこともない。このご時世で飲み会そのものが減ったこともあるが、飲み会で愚痴をいうこともあまりなくなった。道を歩けば鼻歌を歌い、仕事が忙しくなればそのヤバさから逆に笑いが込み上げてくる(これはこれで危ない気もする)

怒っても疲れるだけ、何かが変わるわけではない。

そう気づいたのは社会人になって、随分と時間が経過した後だった。元々わたしは色んな社会の不都合とか、正論を振り翳してくる教師や年上の世代に怒っていたようにも思う。

しかし未熟な自分では的確に口答えするだけの知識もふるまいも持ち合わせていなかったものだから、どうにも上手く応えられないモジモジとした自分にいつも憤慨して、それをイライラという形で周りにぶちまけていた気もする。

もしいま思春期のわたしにご対面したら、あまりに扱いづらくて匙を投げる自信があるほどだ。

・・・

しかしそれが徐々に無駄だと気づき始めたのは、曲がりなりに本を読むようになってからだ。

正確にはこの怒りの扱い方が多少なりとも理屈で理解できてから、その方がずっと自分が楽に生きていけるというメリットを受容できたということなのかも知れない。

素人なりに知恵をつければつけるほど、点と点がビジビシと繋がっていく爽快感があり、同時に不安が消えていくのを感じた。仕事の忙しさに比例した波はあれど、少しでも暇ができれば夢中になって読書にのめり込んだ。ついには積読を消化するため、わざわざ近場の温泉旅行にたびたび友人と足を運ぶようになったぐらいであった。

読書はもっぱら、自分の不安に思っていることや困りごとを解消するために使った。なんで不安になるんだろう、ドキドキするんだろうといった内面的なことから会議の仕方まで、ありとあらゆるハテナや疑念を先人の知恵が詰まった紙の束に縋っていったのだ。

そして「こういう悩みを解消してくれる本がないかな」と調べると、十中八九はいい感じの本が見つかることにもかなり驚いた。

流行りの本は読みやすく読書の初期筋トレには向いていたが、内容がライト過ぎてあっという間に知的好奇心の要件を満たせなくなり必要としなくなった。徐々に徐々に古い名著や分厚くて読みにくい専門書に手が伸び、一周回ってこの頃はエッセイが非常に面白く感じている。

そんな本の虫生活を続けていると、自然に知識が溜まっていった。

次第にわたしは「不安な時はこういうホルモンが出て、その影響でこういう感情になる」だとか「人間は本能的に、こういう反応をまず生理的にしてしまう生き物だ」という客観的なカラクリがインプットされていった。

すると面白いことに、以前であれば富士山の大噴火を起こしていたようなことでも「今はあの本能が動いているんだな」とか「あのホルモンにめちゃくちゃにされているんだな」という、ひどく熱の抜けた、とても客観的認知ができるようになっていったのだ(もちろん段階的にではあるが)

感情を取り扱うにあたって今でも記憶に残っている書物はいくつかあるが、読みやすいものであれば「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」や「内向型を強みにする」、古いものならD・カーネギーの名著「人を動かす」や、少々腰は重いがセネカの「怒りについて」などが大変に魅力的だった。

そういった先人の知恵を拝借するうちに、自分の中の感情が良くも悪くも平らになって、穏やかな波しか来ない退屈なビーチへと変わっていった。これはこれでいいのかと思うこともあるけれど、少なくとも以前よりは格段に生きやすくなったという実感はある。

これが数百円から数千円で手に入るのだ、これだから読書はやめられない。

それでも怒るワタシ

しかし一方、この人は誰なのだろう。

わたしは思わず首を傾げ、まじまじと自分の書き綴った産物に目を通す。文章の中のわたしは往々にして大変荒々しく、時には盛大に泣きじゃくっていることすら珍しくないが、それをカタカタとカフェでタイピングしている自分は奇妙なことに超真顔で穏やかだったりする。

決して感情がなくなったわけではない、処理ができるようになっただけだ。

SNSで一方的なメッセージを受け取って一人部屋の中でキレていることもあるし、仕事の話が急に頓挫して落ち込むことだってある。それでも本を読めば感嘆の声が漏れ出て、一人しっとりとした感慨に耽る。晴れれば気分が上がるし、冷蔵庫にスイカがあると声を上げて喜んでしまう。

そういう時間というクスリに絆されて、ワタシの怒りはいつの間にか空気の抜けた風船のように萎んでどこかへ吹き飛ばされてしまうのだ。それは当たり前のように思えたが、いざその過程を認識してしまうと摩訶不思議なイリュージョンのようにも思えた。時に他者だけでなく、自分をも巻き込む怒りや負のエネルギーにおける凄まじさはワタシ自身が一番よく知っていたからだ。

それならば、わたしの負の感情はどこから来て、どこへ逝くのだろうか。

わたしは整理されていない禁断の押し入れを開けるが如く、今は亡き己のもの暗い感情の行方を大捜索し始めたのだった。

負の感情の逝き先

ある日わたしは憤慨していた、心もとない他者からおかと違いな内容のメッセージが届いたのだ。

小さな個人とはいえ、これだけTwitterやらnoteやら、YouTubeからラジオまで表現の方法を広げてネットという海に語りかけ喋りに喋りまくっているのだから、交通事故のように意図しない誰かの勘所に触れてしまい、石が当たったと思われて怒鳴り込まれても多少は致し方ということは頭ではわかっている。

100人いたら100人の考えがあるし、未来永劫分かり合えない価値観の人だっているのがこの多様性を認めた世の中なのだ。

そう、頭ではわかってはいるのだ。

しかしはっきり言って仕舞えば、瞬発的に腹正しいかどうかは全く別の話である。私は聖人君主ではないし、ましてや悟りを開いた仏でもない。ましてや文脈がずっぽ抜けたよくわからない返し(しかもそれをわざわざ時間をかけて、本人に必ず届く形で送ろうとしてくるその熱量)には半分の腹正ただしさと、この人にとってどんな得があってこんなことをしているのだろうという疑問符が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合うのだ。

こういう時の自分の心身は、あまり好きではない。情けなくもひどく揺れ動かされていて、自分の体と頭だというのに酷く居心地が悪いのだ。

まるで台風が吹き荒れている日のように、轟々と頭の中が荒れ狂う時間を私は非常に嫌った。蓋をしても蓋をしても、予想だにしない角度からひょいと顔を出してくるその荒々しい感情は仕事のパフォーマンスを下げ、穏やかな午後のコーヒータイムを台無しにするだけの力をきちんと持ち合わせているのだ。

風呂の中でも寝る前でもその感情が脳裏をちらついて、もし夢に出てきたらどうしてやろうかと顔も知らない誰かの処遇を練るほどの夜もあった。

しかしその激しい怒りの逝き先を一つ一つ丁寧に辿っていくと、あるときに忽然と姿を消していたことに気づく。怒っていたという感情の焦げ跡こそあれど、そのものは跡形もなく消え去っていて触れることすら叶わなかったのだ。

そしてそこには身代わりのように「勿体ない」というシンプルな感情が、よく設られた生花のようにストンと置かれていたのだった。

怒りの逝き先を辿って

こんなことで、なんと勿体無い。

そうなのだ。許し難いとか、どうにかしてやりたいという気持ちも確かにあったのだが、最終的に私が行き着く先で溜飲を下してくれる主たる思いはこの「勿体なさ」であった。

それは時に怒っている時間であったり、その怒りをどうしてやろうかと手駒ねいている自分自身であった。

怒りというのは、とんでもなくエネルギーを必要とする感情だ。だから怒れば疲れるし、怒鳴れば喉が痛くなる。動悸だって激しくなる。100メートル走を何往復もダッシュしたかのような疲労感から、走った後の爽快感だけを差し引いた疲労と不快感だけが残ると言った方が正しいかもしれない。

そう、怒るという行為で一番の損をするのは「当の本人」なのだ。

稀に「怒らないと自己表現ができない」という人もいるかもしれないが、長い人生を想うとあまり継続性がないアプローチのように思える。私だったら怒り続けて全ての友人を失い、仕事では腫れ物扱いされ、50歳にも満たないうちに脳の血管が切れてこの世とおさらばしてしまいそうな気がしてならない。

であれば、私は「怒っているなあ」と思いながら、一人で怒りたいのだ。

そして「うざかったなあ」「ぶん殴りたいなあ」「ムカムカするなあ」と脳内で荒ぶっている剥き出しの感情をじっと眺める。肯定するでも否定するでもなく、ただただ自分の中に湧き出たその激情を撫でながら、くべすぎた焚き火の炎が収まるのを待つようにじっとひとり撫で続けるのだ。

たまに相方や心を許した友人に火の粉が漏れ出てしまうこともあるが、幸いにも年に1回かに2回ぐらいに止まっている。

そうしてあとは、できる限り自分をもてなしてあげるのだ。美味しいものを食べたり、シーツを洗ってふわふわの布団にくるまってみたり、いつもより丁寧にコーヒーやお茶を入れてみたり。時にはカメラや洋服を買うこともある。

怒りを他者へ向けなかったご褒美は、大袈裟なほどに甘くなくてはならない。

それほどに「怒り」という感情は大きなエネルギーを持っていて、わたしたちを一瞬で飲み込んで生活や人間関係を破壊する。そしてそれによって壊された何かは、どうしたってもう戻しようがないのだ。怒られた側は「2度とこの人とは話すまい」と思うだけだ。そうして縁や、機会や、自分の元に振ってくるはずだった何かが手のひらをすり抜けてどこかへ吹き飛んでしまうのだ。

怒らなかった自分にご褒美をあげよう。どこか遠く、この負の感情が霧散するその時まで。

そんな私の怒りの処遇について思いを馳せた、午前7時過ぎの、雨のよく降るもの暗い朝であった。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃