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最適なタイミングも、納得も、覚悟すらないまま、ただ親になるということ。

「大丈夫よぉ、産めば分かるから!」

悪びれもなく、カラカラと明るい表情で誰かがわたしに言葉を投げる。一見するとフワッとした柔らかいボールのように見えるのだけれど、それはわたしの掌に落ちた瞬間、地獄の拷問器具の如く鋭利な針を突き出した。針は瞬間的にわたしの手に突き刺さり、血が溢れ出すようにわたしの心は酷い悲鳴をあげた。

ふざけん、な。

そんな科学的根拠もロジカルもクソもない理論を、このわたしに信じろというのか。痛みを通り越して、頭の中は煮えたぎるマグマのようにグラグラと怒りが溢れそうになっていた。わたしはそれを表に出さまいと、腹の底でどうにか怒りの水面張力に耐えていた。

それは勉強とか趣味とか自由とか、はたまたキャリアのために身を粉にしてきた人生というこの何十年近い積み上げを、自分の全財産とも言える「何か」を、勝算の見えないカジノゲームに目隠しですべて賭けろと言われているように思えて仕方なかった。

そんな当時の激昂と、数えきれないくらいに足踏みした「子供を産む」というよくある選択をどうにか腹の底に飲み込むまでの、私自身のひどく拙い感情の過程をここに書き残しておこうと思う。

自分で居たかっただけなのに

つい最近まで、わたしはずっと誰かに怒っていたように思う。

それは社会であったり、無責任な言葉をかけてくる大人であったり、時代錯誤のセクハラ発言をしている官僚であったりした。でも本当に憤っていたのは身勝手な他人でも、固い慣習が抜け切らない世間でもなく、どうにも踏ん切りがつかない自分自身であったのかもしれない。

わたしは昔から、女でも妻でも規範的な大人でもなく、ただただ一人の人間として居たいというシンプルな願いを人一倍に欲した。代わりにすごい車もすごい家も、とんでもない宝石だって要らない。全部欲しいだなんて言わないから、そのために時間も、努力も、勉強だってするから。

だから、わたしからわたしを取り上げないで。

それは幼い頃から腹の底に深く沈み込んでいた、唯一にして最も厄介な感情だった。まだ生活の中にジェンダーという言葉が耳に入ってこかった時代に、わたしはピンクが嫌いで、ゲームが好きで、お人形遊びよりも探検と工作が大好きな子供だった。

幸いにもわたしの両親はそのままのわたしを受け入れてくれたが、学校や社会に触れていくうちに「変だよ」と言われ、ステレオタイプの女の子であることを強要される機会が増えていった。自分の当たり前が周りにとって奇妙に映るという信じ難い事実は、幼いわたしにとって恐怖を通り越してささやかな憤りを感じていたように思う。

たぶんその時から、わたしはわたしの中でささやかな抵抗を始めた。

今思えばその抵抗が糸となり、朧げな道標となってゆくゆくの美大進学、IT業界への就職、そして社会人7年目で会社からの独立を経て、フリーランスをしながら並行して自分の事業を作るという現在のキャリア及び人生観を形作ったように思えた。自分が自分でいるためだけに、自由と選択肢をこの手にきつく握り続けるためだけに、わたしは必死に汗水を垂らしたのかもしれない。

子供の頃に思い描いたような人生ではなかったけれど、案外にも今の自分はとても気に入っていた。大変なことも、悔しいこともあるけれど、年を重ねるごとにプライベートでも仕事でも自分という輪郭を色濃く感じられるようになっていった。

しかし20代前半まではのらりくらりかわせていた言葉が、情報が、25歳ぐらいから妙な生々しさを携えて重く肩にのしかかってきたのを今でも覚えている。

つい先日まで「若いんだから」「自由で良いねえ」「全力で楽しみなよ」って甘い言葉ばかりかけてきた大人たちが、半分は冗談なのかもしれないが「婚期を逃すぞ」とか「子供のことは考えているの?」とか、これまで並んでいた少年ジャンプみたいな言葉のレパートリーは一体どこへ消えたのだと突っ込みたくなるほどに様変わりしていった。

まあこれは生殖機能という一種の呪いを持って生まれた、女性という立場に置かれている人に限っての話ではあるのだが。

先輩と同じ歳になった時

まだ自分のキャリアも人生も朧げだった、22歳から始まった社会人人生。

当時の「ガンガン出世したい!」というわかりやすい憧れを抱いていたときは、本当に自分が子供を産むということが体感的に分からなかったように思う。社内の先輩が産休や育休を取っても、能天気な私は「何とおめでたい!」ぐらいにしか思っていなかったし、その人のキャリアとか出世の駆け引きみたいなものは何も見えていなかった。

その先輩へ放った自身の何気ない「おめでという」と言う言葉はあまりにも軽く、どこまでも他人事であった。

私は私に与えられたミッションだけに全力で集中してきちんと成果を出せばそれだけで評価されたし、恋人はいても家族はいなかったので仕事も深夜の飲み会もやりたい放題であった。それは人生史上、最も充実感のある日々の一コマだった。

明らかに変化を感じたのは、27歳の誕生日だった。

それまでは「また大人になっちゃった★」ぐらいにしか思っていなかった誕生日が、歳を重ねることに抵抗がなかった誕生日が、急に小骨が喉に引っかかるような不安を覚えたことを今でも覚えている。

当たり前だが、その来年に私は28歳になる。もちろんその次は29歳で、今の人生の体感スピードで言うと「寝て起きたら30歳になっているんじゃないか」と思えるほどに、日々の時間はあっという間に過ぎていくように思えた。

でも、たしか前職の先輩は28歳で産んでいなかったっけかと、ふと脳裏に知り合いの顔が浮かんですぐに消え去った。その次の瞬間、深海に住む得体の知れない巨大魚がぬっと音も立てず、私の背筋を通り過ぎていったように思えた。ひと足遅れて、全身に波打つような震えが駆け巡った。

当時の私は「そういう年齢だよねー」とアホみたいな顔して、ゲラゲラと品のないトークに腹を抱えながらスタバのフラペチーノに吸い付いていた。でもその先輩と同じ年齢にあと1年で到達してしまうという事実に気がついたが最後、正直わたしは酷く慄いてしまったのであった。

(あれ、でも、彼女は今何をしているんだっけ)

嫌な予感に続けて、自分の狭い狭い視野からこぼれ落ちていた事実がそこにじっと声も出さずに横たわっていた。彼女は明らかに働き方を変えた。それが良いか悪いかは私が断ずるものではないだろうが、間違いなく「そのまま」ではいられないことだけは嫌でも理解できた。フラッシュバックする映像に立ちくらみしながら、わたしは必死に頭の中のパニックを誤魔化そうとした。

しかしひとたび意識してしまうと、もうそれは圧倒的な存在感となって、私を凝視し始めたのだった。

どこにもなかった納得できるロジック

それから、自分なりにネットで情報を漁りまくった。

女性の生殖機能は20代をピークに30代から下降していくということ、高齢出産になるほど障害や奇形児が生まれるリスクが高くなること。そもそも妊娠には十月十日かかることや、つわりで入院したり仕事を辞める人がいるということ。

ストレスフルな現代社会では女性も男性も生殖機能が落ちていて、数年かけても自然妊娠しにくいケースは全く珍しくないということ。女性特有の先天的な不妊症状や、男性のEDによる妊活ができないケースがあること。

それを無事乗り越えたとしても、産後の3ヶ月ぐらいは女性の子宮が交通事故にあったようなダメージを受けているということ。そんな体で、産後は授乳などの為に2時間おきの細切れ睡眠しか取れずにメンタルが崩壊しやすいということ。それに続く保活の大変さ、働きながら育児をする難しさ…

本当に様々であったけれど、はっきり言って探せど探せど不安な材料の方ばかりが転がっていたように思う。環境の面でもお金の面でも、どう考えても「子供を産まないほうが人生設計が楽そう」にしか思えなかった。そういう話ではないのかもしれないけれど、それでもこれらの情報をいざ知ってしまうと「よっしゃ!頑張るぞ!」なんて気持ちには到底なれなかった。

そしてネットの情報をつぎはぎながらに繋げていくと、大体の現実的なスケジュールが見えてきた。

安心して産むなら32歳までに出産を終える。2人欲しいなら体力的にも手間的にも、およそ2歳差ぐらいで生むのが好ましい。となると29歳で一人目を妊娠して30歳で産み、次に31歳で二人目を妊娠して32歳で出産することになる。

(……再来年には妊娠するだって?)

ただただ効率的に、ロジカルに最適な数字をはじきだした自分のアンサーに、私は頭が完全にフリーズしてしまった。比較的、合理的な思考で仕事もプライベートも進めていた自分にとってこれほどまでに受け入れがたい「合理性」はかつて今までなかったのだ。というか、この計算をしたときに私はまだ結婚もしていなかった。

仕事でも20代の後半から徐々に大きなプロジェクトを任せてもらえるようになったのに、あと数年で一時でも戦線離脱しなければいけないということ。生まれても、一体どれだけ前線で働けるのか未知すぎて全く想像ができなかった。

なのに知りうる先輩たちはまだまだ遥か遠くの存在で、勢いのある同年代の動向も見逃せない時期であった。ミドルから手堅いシニアへ、朧げながらにも「なりたい自分」のためにならどんな泥でも啜ってやろうと腹を括って、必死に働き続けた20代の前半戦を終えて、固く靴紐を締め直し次の後半戦に突入したその矢先の出来事であった。

それなのに再来年という片手でゆうに数えられてしまう年数で、私の人生とかキャリアとか、そういうもの全てが一度ひっくり返されるとわかった途端に、何もかもが仕組まれた「茶番劇」だったように感じられた。

わたしはこの戸惑いと怒りを一体誰にぶつければ良いのか、ただただ途方に暮れていた。

諦めも納得も、覚悟すら持たずに

結果的に、私は27歳で結婚した。

でもいつになったら自分は「子供を産んでもいい」と思えるのか、皆目見当もつかなかった。自分の意思がこの先がどうなるかは全く読めなかったが、結婚するときに私は相方に「とりあえず30歳までは好きにさせてほしい」とまとまらない気持ちを添えて、断りを入れておいた。

そこからの数年間、わたしはわたし自身が「産むのか産まないのか」という判断すらを考えないように、臭いものに蓋をした。代わりに、飢えた獣のように仕事とプライベートをギチギチに詰め込んで目が回るような日々を送った。

まず初めての転職をした。大きな環境変化は不安でもあったが、仕事の幅が広がることが楽しくて目の前のことに没頭した。副業を始めて様々な経験を積んだ。たまの長い休みには遠くの国へ旅に出たり、国内の山々へ足を運んで大自然の中を一人旅した。ついには一心発起して会社を退職してフリーランスとなり、仕事をしながら本を出版したり、YouTubeでの発信も始めた。一昨年には退職の主たる理由でもあった教育事業をリリースすることができた。

一つ一つはバラバラのように見えたが、今思えば無意識のうちに怯えていた「何かやり残しがないか」という、行き場のない焦りが突き動かした行動でもあったように思う。

でも必死だったからといって、全て満足感のある結果が出ているわけでもなかった。それでも不思議と、私の中に渦巻いていた憤りと焦りが日に日に薄まっていくのを感じていた。

そうしてフリーランスになって丸2年が経ち、自身の事業もどうにか運用に乗り始めた矢先のことであった。相方と共通の知人夫婦の妊娠報告をキッカケに、我が夫婦の間でも「そういえば自分達はそろそろどうしようか」という話題になったのだ。

それは私がちょうど30歳になって数ヶ月が過ぎた、残暑の残る夏の出来事であった。早生まれの相方は33歳になっていた。そしてその時に、自分でも意外な言葉がわっと頭に浮かんだのだった。

「嗚呼、なんか、産むのかもしれない。」

自分の言葉だというのに、それはどこまでも他人事のような、どこか遠い国のお話を聞いているような浮遊感があった。あんなにも恐れていた言葉が、臭いものと必死に蓋をしたはずの事実が、ひょいと草むらからあどけない顔を出してきたような気持ちであった。

それは納得でも諦めでも、強い覚悟でもなく、ふにゃふにゃとした輪郭のない剥き出しの感情だった。ああ、なんか、たぶん産むんだなという意識だけが、頭のてっぺんから口へとだらしなくボタボタと垂れ流しにされていた。

それはかつて思い描いていたような「母になる美しい覚悟」でもなければ「侍のように腹を括る」ものでもなかったが、かつて私を埋め尽くしていた受け入れ難い恐怖感と底の知れない嫌悪感だけがそっくりと腹の底から消えていたように思う。それは必死に手を出したくなるような欲までとはいかなくとも、唾を吐きかけたくなるような致命的な項目でもないといった、何とも形容のし難い感覚だった。

こうしてどこか気持ちが宙に浮いたような状態で、私たちの妊活は静かに始まったのだった。

ただただ、親になること。

そんなふわふわとした気持ちの中、実はブライダルチェックと呼ばれる妊活に向けた検査を通してわたしは自分が「多嚢胞性卵巣症候群」という妊娠しにくい体質であることを知った。

これについてはまた別のnoteで詳しく書きたいと思うが、この結果を通して不妊が他人事ではなくなった私達は自分ごととして情報を集めるようになった。そして不妊の原因は本当に数多あり、何年も治療しても授からない夫婦の苦悩を本やネットを通して知ることとなった。

ふにゃふにゃの意思にふにゃふにゃの妊娠確率が掛け合わさったことにより、いよいよ私の頭と心は置き場所を失っていた。

そんな中で出来ることからと始めた妊活から数ヶ月、幸いにも私たちは本格的な治療を待たずに運良く自然妊娠をした。何の実感もないまま検査薬が示す「陽性反応」に、私は一人トイレで立ち尽くしていた。それは妊娠5ヶ月となった今でも、大して変わらないように思う。

子供が欲しくて欲しくて仕方がない人がいる中、批判を覚悟の上で言うが、今でも本当に子供が欲しかったのか、私はキレ良くハッキリとは答えられない。自分がちゃんとした親になれるのかも正直わからないままだ。でも今まで通り、きっと私は自分にできそうなことを、自分なりに淡々と誠実にやっていくだけなのだと思う。

それでもあの暗闇で怯えていた頃の自分とは、明らかに違う感情が既にそこにあった。それは「相方との子供が生まれたら、たぶんもう少しだけ人生が面白くなりそうだな。」という、本当に漠然とした好奇心だった。そしてそれこそが、今まで腹の奥底でぐちゃぐちゃと激しく憤り、叫び続けていた私の中の「何か」を収めるだけの力を持っているのだと思う。

正直なところ、産まれて来るまでは何が起きるの変わらないのでこのまま親になれる確証も保証もどこにもない。けれども徐々に膨らみ始めたお腹と、人生で経験したことのない絶望的な苦しみを味わった2ヶ月のつわりを超えて、自分がもう一回生命体として丸ごと作り替えられていくような神秘的な体験をしている。そうしてわたしは、わたしなりに、たぶん親みたいな何かになっていくのだと思う。

泣きたくなるほど、自分の性から逃げ出したいと慄いていたいつかの私へ。

私には出産の最適なタイミングも、母親になるぞという覚悟も、焦がれるような憧れもありませんでした。仕事や自由への執着はそっくりそのままだけれど、幸いなことに諦めでもなく、逃げでもなく、ただただ親になる自分が今ここにいます。たぶん、自分の場合はそれでよかったのだと思います。

そういう、選択とも言えない選択があると言うことを。それを恥じなくて良いと言うことを、どうか覚えておいてください。

そしてこんなに責任が重くて、得体がしれなくて、やり直しが効かない上にリスクばかりが叫ばれる時代に、女性として人間を産むという選択がどれだけ恐ろしかったかということを、私は決して忘れないでいようと思う。

産めばわかるだなんて、産んだらラクになるだなんて、少なくとも自分だけは絶対に言わないようにしようと思う。私の中にあった憤りも、焦りも、戸惑いも、考えたくないと思考を止めた自分も、その全部が本物であったのだから。

苦しさも葛藤も、喜びとひとまとめにして抱えて生きていきたい。きっとそれが、かつてのわたしが欲して止まなかった「わたしのまま」なのだと思うから。

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