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科学やテクノロジーは人を救わない。

年始から沸々と感じていた「科学やテクノロジーの限界」みたいなものを、ここに書き留めておこうと思う。

年始の能登震災は、正月という季節性もあってか本当に衝撃的であった。自身が被災者ではないものの、年明けから何とも言えない、やるせない感情にわたしはどっぷりと包まれていた。

能登と言えば、美術や工芸においても豊かな文化を持っている土地であり、かつて個人的に足を運んだこともあった土地だ。想像がつかないほど遠方でないこともあってか、ある程度の共感ができてしまうのも幸か不幸か感情に拍車をかけた。

また報道されるニュースを通じて、昔ながらの建造物や古き良き日本の風景が倒壊している様子は中々に堪えた。耐震性という意味では悲しい結果を招いてしまったかもしれないが、現代の建築技術を持ってしても再現することができない、美しく歴史的な家屋が失われてしまったことも、心にずしんと来るような刹那さを感じた。

そしてなにより、人の死に触れた人を思うと胸がえぐられる。加えて大切な土地や家が、機能以上の意味を多く含んだ愛着や歴史が失われ呆然とした人々。それらを想像するだけで、もういたたまれない気持ちになる。

そんな気持ちを収めようとネット募金をしてみるものの、はっきり言ってぐちゃぐちゃにの心象には焼け石に水でしかない。そしてそんな時、思わず私は痛感する。

どんなに科学やテクノロジーが進歩しようと、救われない感情があるということを。

科学とテクノロジーは人を救わない

なぜ災害が起きたのか。なぜ大切な人が死ななければならなかったのか。なぜ自分は生まれてきたのか。

それを科学的に、テクノロジーで事細かに説明されようと、私たちの気持ちは収まることはないだろう。

地震が発生するメカニズムが分かろうと、癌の仕組みがわかろうと、生命の成り立ちが解明されようと。震災で亡くなった家族を思う気持ちや、病気が発覚して苦しむパートナーをどうしてもやれない歯痒さ。健康な体を持っていてもストレスにより心が締め付けられ、お金の不安や先の見えない未来に打ちのめされているとき。

そんな目の前に起こっている事象に対し、科学やテクノロジーはロジックと再現性に基づいたアプローチをしてくるかもしれない。しかし、根源的に頭の底にへばりついている果てしないやるせなさや、深い悲しみは一向に救われることはない。それどころか、無神経さを感じて憤りすら湧いてくるかもしれない。

例えば仕事の働き過ぎで鬱になったり、大きな失恋をしてこの世界からふっと消えて無くなってしまいたくなるような時も、やはり化学やテクノロジーではどうしようもない時が多分にある。

もちろん、適切な治療や対症療法は存在する。しかし、突き詰めていくと科学やテクノロジーにはロジックがあり、因果関係があり、原因論に帰結する。最終的には原因を明らかにした上で再発防止に向けたアプローチを提案される。つまりどん底のような気持ちに対して、目の前に差し出されるものは事実原因とこれからのタスクになるのだ。

気持ちが落ちきっている人からすると、これほど無味乾燥の食べ物のような、気持ちのやりようのないことはないだろう。しかもそれが優良なアプローチであればあるほど、明確な原因であるほど、全ては自分の振る舞いや、環境や、タイミングを恨んだりとやはり落とし所があるようでない、蟻地獄に落とされたような感覚になる。

ペラペラと原因を述べられても、一向に治らないこの腹の虫や、どうしようもなく締め付けられる心臓の裏側の痛みは一体全体なんだというのか。

仮に、父が亡くなった直後の呆然とする私に対して科学者が「その感情は前頭葉から出ているほげほげホルモンを感じているだけなので、しばらくすれば通常に戻ります。全く大丈夫ですよ。」と告げたら、たぶん手元のiPhoneを握りしめてそいつをたこ殴りにしてしまうような気がするのは私だけではないと思う。

かつて宗教が担っていたもの

宗教に縋りたくなる気持ちが、この年になって少しずつ分かるようになってきた。大抵の場合、それは科学や資本主義からこぼれ落ちた何かを腑に落とすためである。

私自身も父が難病を患ったとき、何とか意味を見出そうとした。都合が良いことは分かっていたけれど、神社やお寺を散々巡ったり、先祖に散々お線香を上げた。それは自分の中にあるゆるい土着信仰みたいなもので、根拠も科学もへったくれもないが、当時はもうそれにしがみつくし無かったとしか言いようがない。

だって現代科学だろうが大金を払おうが、当時の私の父にできることは何もなかったのだ。

父の死後も、私を癒してくれたのはやはり科学でもテクノロジーでもなく、お坊さんのお経や墓参り、日々線香を上げるといった宗教の慣習を継続する行為であった。そしてそれは恐らく、私自身の祈りそのものであったように思う。

父の死後、身に染みて「宗教が担っていたもの」を思い知ることになった。宗教とは、歴史的には政治的な機能を一部持ちつつも、その根底にはロジックや科学的な客観性では片付けられない、破綻している事実や心の問題の最後の受け皿であったのだと思う。

科学の外側の、神様を信じきれない狭間で

今になって、宗教に一定の身を預けられている人達が羨ましくすら見えてくる。そこには想定外のない、安定した救いが存在するからだ。

出来ることなら今から身を清めたいと思いつつも、一般社会的には神様が(科学的な見解では)いないということ。個人的に信じたい気持ちはあれど、頭の数%は嘘なんじゃないかという気持ちがパラパラと沸いては沈み、霧散していってしまうのが現実だ。

そして後ろを振り返れば、もう一方の科学やテクノロジー、付け加えると資本主義にすら救いが全くない。これは八方塞がりと言っても、差し支えないのではないだろうか。

もちろん社会を大きく発展させ、病を防止したり、まだ見ぬ可能性を広げたりするのも科学やテクノロジーだ。だがやはり、それだけに全体重を預けて生きていけるほど人間の頭や感情はロジカルにできていないように思える。「頭では分かっているけれど」という言葉の通り。頭だけで理性的に振る舞えたのなら、戦争は起きないし、会社の同僚と喧嘩することもないはずだからだ。

宗教の機能不全と、科学とテクノロジーの射程範囲外における狭間のような現代で、私たちは日々を右往左往している。

そんな路頭に迷う1人として、どうにかこうにか毎日を処理するために私は今一度、目の前の人とゆっくり話すことや、昔からあるような習慣を見直し始めた。これも焼け石に水なのかもしれないが、たいていの頭や心のぐちゃぐちゃとした事象は注射を打てばたちまち治るようなことは全くなく、年単位の膨大な時間を潰すことで内なる感覚を砂のように風化させていくしかないからだ。

そしてその長い長い時間に、暇に耐えられるように、わたしは様々な時間の使い方や環境を工面するしかない。それが自分にとっては人と会ってゆっくり話したり、朝に文章を書いては消したり、気分がいい道をただ散歩をしたりすることなのだと思う。

最短でも最高でもないかもしれないが、そういう時間の「垂れ流し」が自分を少しずつ整えてくれる整腸剤のような役割を果たしている。そういう時代を受け流していく術を、暮らしを、今一度ゆっくり手探りで見つめている。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃