情けない実生活の一端で、学びが生かされたのを感じた瞬間
20:00まであと10分。
突然夫が怒鳴りだす。
「おい、お前ら風呂に入れ!」
ちなみに、食後から20:00までは自由時間というのが我が家の子どもたちと話し合って決めた納得ルール。夫と共有したことはある(はず)。
つまり、子どもたちはしかるべき時間に遊んでいるだけなのだが、夫はなぜか今日に限って「やるべきこと」を早くやらさねば気が済まないらしい。
「おい、お前ら風呂に入れ!」
すると6歳の娘がふざけてこう答える。
「もーパパー。バカー♪」
彼女はパソコンでマインクラフトを続ける。
遊んでいい時間に遊んでいるだけなのに、家じゅうに響くようなでっかい罵声を浴びている理不尽さを、彼女なりにごまかしつつ表現しているのである。
だが夫は、さらに続ける。
「おい、お前ら風呂に入れっていってるんだろうが!!」
娘「…。」
すると次の瞬間
「バシッ!バシッ!」
叩く音がした。
私は、手前の部屋で作業をしていたので
子ども部屋に行くと、大粒の涙をこぼしながら、6歳の娘が風呂に入らねばと服を抜いでいる。
声をかみ殺した様子が尋常ではない。
となりで一緒にいた長女に聞いたら、こう答える。
「パパが、おしりと頭をぶったんだよ」
―20時まであと5分あった。
夫の部屋に行ってみた。
大事な娘を2度も、しかも音がでるほど叩かれた悔しさを顔に出さないようにするのが精いっぱいだった。
そして
普段から20:00までは自由時間だということを再確認。
20:00まで遊んでいい時間と子どもたちは認識していたこと。
にも関わらず、大きな声で怒鳴れた上、体罰を受ける理不尽を娘は感じているはず。
「叩いて伝えたいことは何だったの?」
尋ねると
「俺が言ってるのに、無視したような感じが気に食わないからだよ」
と言い放つ。
「だとしたら『ちゃんと返事してほしい』と伝えるだけでいいのでは?わざわざ叩かなくても」
というと
「俺がそうしたいと思って、そうしたんだからいいだろ!」
という。
―無茶苦茶である。
「叩くことで、伝えたいことが伝わるならいいけど、今伝わっているのは『自由時間に遊んでいただけなのに、怒鳴られて叩かれた。2回。』という事実だけ。叩くのは、心から嫌だ。やめてほしい。」
と伝えてみた。
男の人から叩かれたり、殴られることのあの恐ろしさと凍りつきは
他でもない私自身が、夫からよく学んだことである。
暴力は良いことは何も生まない。
なにより、凍り付いた感情の処理があとあと時間がかかる。子どもならなおさら、大人まで保存しちゃったりする。
すると夫は次の瞬間こういった。
「お前の母親だって、お前に同じようにしたって言ってただろ。なんで母親には言わないで、俺には言うんだよ!」
文脈が妙である。
ちょっと考えてみた。
―かつて
心を許していた時期に、私は彼に胸の内を明かしたことがある。
「自分の母親は良い人なんだけど、感情的で、よくカーっとなると叩いた。
すごく痛くて、悲しかった。何より、自分が好きなお母さんが、そうなることが切なかった。そのあと、布団で泣きながら『ごめんね』って言われて、私も泣いた。あー、この話はじめてしたわ!」
と、アウトプットした安堵と罪悪感に涙しながら。
つまり、自分なりにデリケートな内容だったわけである。
身内以外には話したことないような種類の。
そんでもって、そういう痛みがそのまま私自身にトラウマになっていたのを、時間と心をたくさん使って取り去る練習を積み重ねているような背景がある。
そんな私に、重ねて彼はこう言ってきた。
白目むきながら。
「自分も叩かれていたくせに、なに言ってんだよ!」
(…?)
意味不明である。
100歩譲って「お前も叩いていた」ならわかるが
「お前も叩かれていたくせに」って、すでに論理的ではない。
おそらく、夫の目的は一つである。
①無視したような態度が気に食わないから、娘を2回叩いてみた。
②妻が「叩くな」と言ってきたのが気に食わないから、妻が一番傷つくパターンを選んで攻撃してみた。
―とまあ、私は冷静だった。
こんなふうに思っていた。
(攻撃したとしても、自分の怒りが癒されるわけではないことを、まだ分からないのか…)
と、愕然としながら理解した。
いや、わかる。
私もたいがい感情的な人間だから。我慢できなくて噴出してしまうかんじは、よくわかる。そもそも、その証拠がこの結婚10年間の痛みを伴いすぎるパートナーシップなわけで。私は怒りに感情が爆発して、それに伴い、相手にとってイヤな物言いもしたと思う。
痛みと自己否定の煽りが深すぎて
「離婚して死ぬか、離婚しないで死ぬか」の2択で絶望したこともあったけど
最終的に「離婚せずに自立する」という結論に至っていた。
理由は完全に、大好きな子どもたちとの生活維持のためだ。
そう。目的は、波風が立たない生活の維持である。
そう、私も夫も感情的にさえならなければ、あらゆることは平和だった。
家の中の時間のほとんどは、子どもたちのためのもので、その子どもたちを見ている私は幸せだったし
夫のことは好きでも嫌いでもない状態に気持ち向かわせたところで
夫が仕事の話をすれば、口角上げて相槌打つことや、反復リアクションをとることで、平穏を保つのもかなりうまくなった。(ひきつって失敗も多いけど。)
残念だけど、これが私の精一杯。
世間でいう「夫をたててあげましょう。」みたいなこと実践できればよかったのかもしれないが、なかなかどっこい、自分を追い詰めたり、傷つけることができる相手に、やさしさに満ちた対応をするのは偏差値高すぎる。
ーと、まあ何が言いたいかっていうと
感情のコントロールを猛烈に学習したのである。(これでも!)
努力したのだ。
それにともなって、なんと私は無意識に期待をしていたのである。
同じ1年半の間に、夫も同じように感情についての俯瞰を進めたのではないかということを。少なくとも、夫とはその上で離婚せずに生活することについて共有していた(と思っていた)から。
「ならばゴールは日常の平和維持しかない」
という理屈である。
そんな日々の中
ひさしぶりの攻撃に、さらに重ねての(ロジカルでない)攻撃だったわけである。
―なのに。
もう一度言う。
夫を前に
私はびっくりするほど冷静だった。
(怒りはモヤモヤっとちゃんとあったけど)
これまでだったら、くやしさと情けなさで号泣していただろう。
そしてさらに追い打ちの言葉を受けて、傷ついていただろう。
夫は、自分の言動受けて泣いてる人間を、さらに追い詰めることが何より得意なのだ。
(こんなのはじめて!)
と私は感動のあまり自分の胸に手を当てたくなった。
1年半前までと自分の心の反応が違うかの理由は2つあって
なぜ夫からこういう言動がとびだすのかという心理的背景とそれを突き動かすトラウマの原因がなんとなく分かってしまったから、というのが1つと
私の中で母への愛着問題がずいぶん解消していたからだったことが2つ目。
たくさん学んだら、こうなっていたのだった。(特にHSPの神経の学び)
「これまでの学びは無駄じゃなかった」
―ということがものすごいクリアに証明された瞬間だった。
となると、私がしなくてはなないことは3つ。
1.「そう思うんだね」と伝えて、夫の部屋を去ること。
2.6歳の娘のケアをすること。
⇛パパが何を本当は伝えたかったかの翻訳をすること。
⇛叩くということは適切な行為ではなく、叩いた人側の問題であると説明すること。
3.もっと本格的な自立に向けた準備のための覚悟を決めること
そういえば
結婚する前、長いこと私は「お金がなくても得られる幸せの豊かさ」について語ってばかりいたような気がする。
でも、今私は、思う。
現実問題、お金がなければ守りたいものが守れない。
お金がなければ、大事な言葉を封じられる。
大事な人を守るために、お金を得る。
―いいじゃないか。
さらに強くなろう。
今日はその第一歩だ。
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