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読書感想:クチュクチュバーン

こんにちは。詠み人知らずです。

最近の読み物はもっぱら評論本や資料ばかりでしたので、久しぶりに小説を読みました。吉村萬壱さんのクチュクチュバーンを読んだので、さらっと感想を書いていきます。直接的なネタバレはありませんが、前情報ほとんどなしに読みたい方は全体を通した感想のみをご覧ください。

 かつて、シェイクスピアの作品を読み漁っていた時、「なぜロミオとジュリエットは四大悲劇に含まれないのか」を考えていた時期がありました。なんとなくその時のことを思い出しました(いつか記事にするのでその時にリンク追加します)。


全体を通した感想

 吉村萬壱さんの作品を読んだのは初めてでしたが、非常に独特な世界観となっていました。現実世界にはないようなものを鮮明に想像させる文章で、読みごたえがありました。「クチュクチュバーン」を開いたときの最初の行も、「人間離れ」の最初の行もたった一文で世界観が説明されており、すぐにその世界に没入することができます。

 両作品とも、「どこまでが人間なのか」ということを深く考えさせられるないようでした。見た目はもちろん、精神や人間らしい文化などすべての「人間らしさ」が破壊しつくされています。そんな中で、どこかに人間味を持つ人々がいて、それを維持していったり、逆に失われていく過程も描写されています。読者たる私たちはどこまでも人間ですから、登場する人々をどう見るのかは私たちが歩んだ人生・価値観に委ねられていると強く感じました。性欲、食欲、倫理観など様々な角度から考えられる作品でした。

 壊れた世界・絶対に目にすることができない世界を見ることができます。その勇気があるなら是非ともお勧めしたい作品です。グロテスクな描写、性的な描写がありますが、それは決して無駄なものではなく、世界観と人間を描くのに必要な描写で、そのシーンを見て安心する・血が通ったような感覚になるものでした。


こんなに奇妙な世界なのに、どうして心が締め付けられたように切なくなるんだろう。



↓ ここからはあらすじと描写の感想 ↓


クチュクチュバーン

 世界が壊れ、人間が特殊な進化を遂げ始めたばかりの状態から話が始まる。

その進化は個体差が激しく、八本の腕が生えた母親、シマウマと同化した男、犬人間、鉄塔と同化した人間、巨大な目玉になった人間、頭がなくなった代わりに角が生えている人間、事務机と同化した人間など様々だ。

この世界に生きるあらゆる人間が、「人間」をどう捉えているのかが何ともわかりやすかった。今の私達とはかけ離れた「進化した人間」は人間を理性として捉え、まだ進化していない人間は進化した人間を人間とみなしていなかった。中には、まだ進化していない人間が住む地域にもその進化の波が押し寄せていることも描かれていた。その人々が考える人間性を守ろうと戦う必死さ、厳格さに加えてなんとも悲しくなる虚しさがあった。人間と人間でないものの区別とは何かが克明に描かれる中で、私たちの歴史にもあったような出来事が再び繰り返されていく愚かさも印象的だった。

 前半では人間の特殊な進化や進化後の死が描かれており、後半は怒涛の速度でその世界で暮らす人々の救い、歴史の漂白、世界の果てが描かれていた。後半の方からは、理性が強く残っているシマウマ男に沿った展開が描かれており、もっとも読者が感情移入しやすいキャラクターかもしれない。

 そして登場人物の全員が、寂しがり屋だと感じた。


 前半・後半共に性的な内容が含まれており、それが一縷の人間性にも繋がっている印象があった。進化の波が押し寄せていない地域で描かれる不貞行為はもちろん、進化しても尚異性の体に興奮したり、性器を触れられることにより興奮する描写は、それまで描かれていた「絶対に見ることができない世界」の中で異色を放っていた。

性欲だけは、絶対に私達でも観測できる日常的なものだからだ。そしてだからこそ、この性描写を見た時にこの世界の人がどうしようもなく我々人間であることが強く印象に残ることになる。動物の繁殖行動とは異なる「人間の性行為」に他ならなかったからだ。人間性を失った進化した人間と、人間性のある進化した人間の性描写も描かれており、一層「人間の性欲」が引き立てられていた。


 さらに、忘れてはならないのがこの作品内の食事の描写だ。「食事」の扱い方や、それぞれのキャラクターの食事のとり方だ。これは後述する人間離れにも言えるし、もしかしたら作者が考える人間性の出やすいものが性欲と食事なのかもしれない。クチュクチュバーンでは食事を提供する組織や、食事によってタガが外れた者など様々だ。荒廃した世界で何故食事を提供するのか、どう食べるのか、何を食べるのか。人間以外の食事も描かれており、特に虫の食事は明確に死を意味するものとして扱われていたように思う。



人間離れ

 クチュクチュバーンに掲載されているもう一つの作品。クチュクチュバーン同様、外からの理不尽によって人間性が、社会が壊れていく話であったが、こちらは基本的に人の形を保っていた。つまり、崩壊するのは人々の心だった。

 緑色のカニのような生き物と、藍色の形容しがたい生き物は人間を徹底的に襲う生き物であった。その人間の基準とは何か。苦痛に耐えて恥を忘れた姿をとれば襲われない?動物のように振舞えば襲われない?あるいは倫理観を捨てれば生き残れるのか?町中にはびこるデマのような情報、それが有用かもわからない。人々は何とか生き残ろうとあらゆる手段にすがろうとする。

足を一振り、舌を一回しするだけで簡単に命を奪う生き物と、裏切り者を処刑し、見せ物にする人間は何が違うのか(そしてこれも人類史で起こったことである)。

それでも非人道的なことはしたくないと、ただ死をまつ人々もいた。この世界には様々なヒトが描かれていた。そしてそれらは、緑や藍色の生き物にとってとてもたやすく命を飛ばせるものだった。私達が子供の時、無意味にアリを踏み潰していたようなものであった。

 まともな食事はとうに尽き、動物も生きているのはゴキブリだけで。藍色の生き物の落とし物か糞を食べるか、ゴキブリを食べるか、あるいは――。人間性を捨てるため、この世界の人間のほとんどは服を着ていない。裸が当たり前になった世界で行われた性行為は、少しの性衝動の発散と大きな目的のためであった。このような日常を、人間の営みと呼んでも良いものなのか。


 このような世界であっても、服を着て、保存食を食べ、建物に住み、希望を持ち、考えに考えて人間らしい行動をする人もいた。こんな世界にいても仕方がないと、前向きに行動していた(そしてこれも人類史に起こったものであり、私は真っ先に聖書を思い出していた)。そしてその人は遂に脱出に成功する。途中、地上の女の子がその人を見て希望を見出した。人間であるならば、道具を使って対抗せよと言わんばかりのその姿は、誇り高く優雅に描かれる。

海の向こうに待ち受けていたのは、楽園でもなければ地獄でもなかった。あったのはただ、「世界」だった。


 序盤では人間離れした世界が描かれており、中盤になると、人間離れとは何かが描かれる。人間離れしたヒトは何を捨てたのか、それが救いになるのか、その世界の信仰とは何か、それでも人らしく暮らした人間が語られる。終盤に入ると結局この世界がどういうものなのかが描かれる。この世界の残酷さは、はたして緑や藍によるものだけなのか。残酷なのは運命によるものなのか。狂った人々によりもたらされるものなのかが目まぐるしく描かれる。クチュクチュバーンではシマウマ男が最もヒトとして描かれており、最後はシマウマ男から見た世界が描かれていた。この作品では服を着て世界からの脱出を図った男がその役割を担った。脱出先で彼が見た街の様子は、混沌としか言えないものであり、最後の数ページで描くにはあまりに死因が多かった。絶対に見ることができないはずなのに、どこか私たちの世界と変わらないような、むしろ今の世界の縮図のような、そんな光景が広がっていた。


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