大島弓子と精神世界「夏の夜の漠」

 今から十数年も前のこと。子役としていきなり年上の人々ばかりの世界に飛び込んだ私は、「小さいのにしっかりしているね」とよく言われた。しかしそれと同じくらい、「子どもらしくない、可愛げがない」とも言われてきた。これらは表裏一体だ。褒めるんだかけなすんだか、どちらかにしていただきたいものである。
 学校でも生意気だと毛嫌いされることもあれば、PTAのおばさまの井戸端会議に紛れて可愛がられたり、小児性愛と思われる教員にプロポーズされたり、通学路で誘拐されそうになったりとアリス・リデルもびっくりの寵愛を受けることもあった。大人が皆大人というわけではないんだなとよく思った。
 それというのも、私は小学校に入学するかしないかという頃に、少女漫画界の巨匠・大島弓子による「夏の夜の漠」という作品を読んでいた影響が大きいと思う。

 「夏の夜の漠」は、登場人物全員が精神年齢の姿で描かれているという異色の作品なのだ。主人公の羽山走次は8歳の小学生。しかし精神年齢は20歳なので成人した姿で描かれる。彼の周りをとりまく人々、例えば、いじめにも気づかず、走次の大人びた作文を盗作ではないかと責める学校の先生は教え子と同じ小学生くらい、離婚問題を抱える父と母も小学生風の姿、認知症が進んで寝たきりのおじいちゃんはおしゃぶりを加えた赤ん坊である。

 この作品は「バカばっかりだ!」というタイトルで「世にも奇妙な物語シリーズ」でも実写化・放送された。ここからも伺えるとおり、走次は他の人間はなんて子供なのだろうと頭を抱える日々を過ごしている。
 しかし彼にも自分と同世代の憧れの人がいる。おじいちゃんのヘルパーをしている青井小箱さんだ。彼女は心身共にすこやかに成長した二十歳、であり、唯一精神年齢と実年齢が一致したキャラクターである。

 物語が進むにつれて(詳しくは読んでいただきたい)、今まで子供だと見下していた人々が実はそこまで子供でもなくて、様々な思惑や現実を突きつけられるにつれて、走次の“精神年齢の世界”はやがて崩壊を迎える。

「いいんだ
ぼくは実際には8歳の子供だからいいんだ
迷子のように泣いてもいいんだ」

 と路上で泣きじゃくる走次の最後の姿はいつの間にか成人ではなく、子供の姿になっている。このラストシーンはとても哀しいものだが、走次がようやく“子供に成長”出来たという救いも感じられる。おかしな日本語かもしれないが、年齢としては退行した走次に成長を感じるのである。

 周りに気を遣えば遣うほど「◯◯歳らしくない」と言われ続けた私はしょっちゅうこの「夏の夜の漠」を思い出し、ついには年齢という概念を捨てることにした。これは役者として役のイメージを限定したくないというのが主な理由だが、私の人格ではないうすらぼんやりとした「子供らしさ」や「ティーンらしさ」を押しつけられるのはもううんざりだった。そんなの私である必要ないじゃん。還暦を迎えた時に「還暦らしくないですね」と言ってくる人もいるのかと思うと心底ゾッとした。

精神年齢なんていうものは、一本のものさしでは測れないと思う。

 一番好きな大島弓子の作品は?と聞かれたら、私は「たそがれは逢魔の時間」と答える。しかし、一番影響を受けた作品は?と聞かれたらこの「夏の夜の漠」だろう。

 ときに大島弓子作品のキャラクターは「F式蘭丸」のように想像上の人物と絆を深めたり、「裏庭の柵こえて」のように樹木の切り落とされる声を聞いたりする。また、「ダリアの帯」「ロングロングケーキ」といった作品では主人公は完全に自分の精神世界と共に暮らす、またはそのように周囲から思われているという結末を向かえる。
 現実と精神世界の境目を握っているのは、主人公でもなく読者でもなく、創造主である大島弓子その人なのだ。

 大島弓子の漫画に描かれるキャラクターは、ある種の狂気を感じるくらいに純粋無垢である。
 もし貴方が現実に疲れたと感じているなら、大島弓子の漫画をぜひ手に取っていただきたい。


 これは #私を構成する5つのマンガ への参加記事ですが、ひとつの記事に5つを詰め込むのはとてもじゃないけれど大変だ、と思ったのでひとまずの、第一弾です。
 大島弓子先生の世界については書いても書いても追いつけないような、透明で遠いゴールを感じます。

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