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千の風になって・・・墓問題

50代に近づき〝老い〟や〝墓問題〟がリアル度を増してきたように思う。
 
 友人らとの飲み会で墓について話題にする事もある。配偶者や子どもがいても、のちのち墓を誰が守り継いでいくか、多くの人が多少なりとも気にかけているようだ。しかし、飲み会では、 
「どこの家も同じ状況だね。そうなっていくともう無縁仏だね。そんな先のこと考えても仕方ない気がする。その時はその時の人たちが考えてくれるさ。」 
で一件落着とし、万歳三唱して終了となってしまう。

 私の父は、都城市内のお寺の納骨堂にねむっていて、現在そこには父だけの遺骨がある。70歳を過ぎた母は、里である末吉町光神(こうじん)の霊園から、両親の遺骨を夫のところに移したいと言う。 
 母には兄が一人いるが、埼玉に家を構え故郷にもどる見込みはないし、その子ども達が南九州の墓を管理することはないだろう。

 光神の納骨堂は、昭和54年に私の祖父母たちが、集落で話し合って墓を整備し建てたもので、14軒分が横1列にくっついた長屋アパートみたいな造りである。アルミサッシのガラス戸が、西向きの墓石を桜島の灰から守ってくれている。

 しかし、中にはだれの遺骨も入っていない墓がある。建てた時とは予定が変わってしまったのか・・・、墓の移転を考えているのは、母だけではないようだ。そうして田舎では、人家と同様に墓も空き家になっていくのだろう。

 祖父母、父、母と都城の納骨堂に集結しても、その後はやはり同じ心配が残っていく。都城にいる私や妹は嫁いだ身であるし、弟は大阪に家を構えすっかり大阪の人に・・・。 
 直系の後継者である弟の子どもは娘ひとり。その子が南九州の墓を引き継ぐことは考えにくい。私や弟、妹がこの世を去った後は、墓はどうなっていくのだろうか。

  父は生前1度だけ、自分の死後について語った事がある。私が20歳くらいの頃、リビングで二人くつろいでいた時、何の話題からか
「散骨がいいな。木の根元あたりに撒いてもらうのがいい。」 
と語ったのである。その時初めて〝散骨〟というのを私は知った。  

 それが父の本望だったかもしれないが、父の遺骨は納骨堂に納められた。どこにどのように散骨して欲しいのかを、遺言できちんと書き残すか、日頃から家族に具体的に伝えていれば実現できたかもしれないのにと思う。 
 ただし、散骨を希望するなら、事前によく調べておかねばならない。どこに撒いても自由とはいかない法令遵守の問題や、海なら船をチャーターするなど、多額の費用がいる場合もあるからだ。

 木の下や海に撒く散骨は、大地に生まれ大地に帰る自然な循環のように感じる。テノール歌手の秋川雅史さんが、重厚な声で魂を込めて歌う〝千の風になって〟が聞こえてくるようだ。

 ♪ 私のお墓の前で 泣かないで下さい 
  そこに私はいません 眠ってなんかいません  
  千の風に 千の風になって 
  あの大きな空を 吹きわたっています ♪

 元々は、作者不詳の英語詩を作家の新井満さんが和訳し曲をつけたものだそう。紅白歌合戦で歌われ、広く知られるようになった。 
 この歌で救われた人がたくさんいるという。東日本大震災で遺体が見つからない人々、お墓を造れる状態ではない人々、震災だけでなく事故やさまざまな事情により遺骨を墓に納められない人々、墓があってもそこに行くことができない人々・・・は世界中にたくさんいる。 
 この歌はその人たちの救いになっているという。雨の日も風の日も体調が少々悪くても、家族の心配をよそに毎日墓参りに行くお婆さんが、この歌を聴いてからは時々にしてくれるようになった・・・という話もあるそうだ。

 冒頭で「父は納骨堂にねむっている」と書いたが、歌のように、父は風になり地球自然の一部になっているのかもと思う。祖父母たちも、3年前に死んだ猫のミケも、みんなみんな……。

 でも、墓は遺された人たちが集い偲び合うための象徴の場所として、重要な意味があるとも思うので、母の希望どおり墓をまとめ管理を引き継いでいくつもりだ。飲み会での結論が再び頭によみがえる。 
「先はもう無縁仏、考えても仕方ない。」 
 そう、そこから先の先は、もう千の風だ。みんなみんな世界を吹きわたっているのだと思う事にしよう。 
    都城文化誌「霧」89号掲載(2012年7月)       

■その後話・・・2022年5月記 
 2021年7月、母と私で光神を墓じまいし、祖父母の遺骨を都城に移した。 
 私自身は散骨を希望している。海への散骨を行う業者が宮崎市にあり、金額やサービス内容も一応娘たちに伝えてある。遺言の代わりになるかも・・・と思い、こうしてここに記しておく。

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