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記憶を確かめたい衝動

「タイムマシンがあるとしたら、過去に行く?未来に行く?」と聞かれれば、即答で「過去」と答えます。

未来に行くことは、あり得ません。微差の積み重ねで未来が変わると信じたいからです。

なぜ、過去なのか。それは、過去を変えたいわけではなく、自分の記憶が正しいのか、確かめたいからです。
行きたいのは、保育園~10歳くらいの時代です。中学以降は、今でも同級生とのつながりがありますし、自分の中では、わりと最近のことのように感じており、記憶に自信もあるのですが、小5のときに転校したため、10歳頃までの記憶に自信が持てないのです。

記憶している出来事は、本当にあったのだろうか・・・そもそも、そんな世界が存在していたのだろうか・・・無性に知りたくなるときがあります。

保育園の頃、つまり40年も前のことですが、父親と仮面ライダーのショーに行ったとき、「この仮面ライダー、絶対、偽物や!」と確信したことがありました。握手コーナーで、がっかりしながら偽物と握手したこと、帰り際、父親に「あの仮面ライダー、偽物やろ」と言ってしまったことも鮮明に覚えています。

そもそも、記憶というのは、いったい、どこにあるのか?
今や、買い物に行くとき、買うものを記憶していられるのは、せいぜい3個まで。それ以上になると、メモして行かないと、何を買うんだった?となってしまいます。それなのに、40年も前の出来事は鮮明に脳裏に焼き付いている・・・考えてみれば、とても不思議です。

記憶というのは、人間の体内のどこかに残された「過去の痕跡」です。

裁判は、証拠という断片的な過去の痕跡から、裁判官が事実を創り上げていく手続です。ですから、過去の痕跡である人間の記憶も、「証拠」の一つとして扱われます。例えば、目撃者の記憶は、法廷の証人尋問という手続で、事実を判定するための「証拠」となり得るか、検証されることになります。
現実は、タイムマシンで過去に戻れませんから、裁判で認定された事実が、実際に存在した(かもしれない)過去の事実と同一とは限りません。

「歴史」も裁判と同じです。
卑弥呼や聖徳太子の時代に生きていた人は存在せず、古文書や遺跡といった断片的な過去の痕跡から、歴史上の事実が創り上げられていくからです。

厳格な手続の刑事裁判でさえ冤罪が生じてしまうのですから、歴史の授業で習った出来事も、実際にあった事実と同じとは限りません。

記憶も裁判も歴史も、元をたどれば「いま、ここにある過去の痕跡」に過ぎません。
記憶は当てにならないし、検察官が証拠を捏造することもあるかもしれない(現に検察官による証拠捏造事件もあった)し、史料も偽物かもしれない。こうして何もかも疑ってしまうと、結局、何も考えることが出来なくなってしまいます。

まずは何かを信じなければ、先に進むことができません。
とりあえず、自分の記憶と確定した裁判と歴史上の事実は暫定的に信じるとして・・・
それでも、タイムマシンに乗って、自分の記憶は確かめたいですね。
(了)


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