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「ことばを紡ぐための哲学:東大駒場・現代思想講義」で学んだ動詞的アプローチ

小学生の頃、国語の授業で、こんな問題をたくさん解かされました。

「この文章の『主語』『述語』はどれでしょう?」

問題を解くとき、いきなり主語を探しがちですが、そうではなく、まず「述語」を見つけて、それから、述語に対応する主語を探すと、解き易かったことを思い出します。

その解き方と同じアプローチでは?
この本を読んで、そんな感想をもちました。

「ことばを紡ぐための哲学 : 東大駒場・現代思想講義」

本書は、東京大学教養学部で行われたテーマ講義の各担当教員が講義内容を整理して執筆したもので、「名詞」から考えるのではなく、「動詞」から考えてみよう、という視点が貫かれています。

確かに、物事を深く考えようとするとき、「『私』とは何だろう?」「『人間』とは何だろう」と「名詞」で考えがちですが、「『〇〇する』とは何だろう?」と「動詞」的に考えてみると、新しい発見が生まれそうな気がします。

本書には、こんな記述があります。

最初に名詞的な主体があって行為がなされるというよりも、動詞的な行為が先にあり、そこから自己と他者のような主体が構成されると考える


哲学と聞いて、私がまず思い浮かべるのは「我思う、故に我あり」で有名な「デカルト」です。

名詞的な近代的主体「我」の概念を築いた哲学者ですが、動詞的にアプローチすれば、デカルトの思考プロセスの本質が「思う」すなわち「疑う」ことにあると気づかされます。

デカルトが生きたのは、激動の時代。新しい哲学や科学は激しい弾圧にさらされていました。
世界史のテストで「宇宙の無現を構想して火刑に処せられたのは誰?」と出題されるジョルダノ・ブルーノも、この時代の人ですし、ガリレオが地動説を唱えて有罪を宣告されたのも、この時期です。
ガリレオの裁判のことを聞いたデカルトは、4年の歳月をかけて準備した科学論文の出版を断念したそうです。

中世(デカルトにとっては現代)の既存の価値をすべて「疑う」。このような”動詞”こそ、デカルト哲学の本質であるように思えます。

激動の時代を命懸けで生きた人物に動詞的にアプローチすることは、今の時代を生き抜くヒントになりそうです。
(了)

  

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