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社会人なってから世界史を「学ぶ」のに苦労しました。

■社会人になってから世界史を「学ぶ」のに、とても苦労しました。
 「学び直す」のではなく、「学ぶ」ことが必要だったのは、高校で世界史を選択していなかったからです。
 私が高校の頃は(1991年~1993年)、世界史は必須科目ではなく、日本史・地理で大学を受験しました。

 大学に入学した頃の私のレベルは、「マリー・アントワネットって誰?」という程度。知り合いに笑われ、さすがにマズいと思って、山川出版社の教科書を買って読み始めました。
 しかし、高校の教科書というのは、試験があるから仕方なく読むわけで、読み物としては、まともには読めないですね。最初の方だけ何とか読んで、頭に全く入らないまま、司法試験の受験勉強に専念するようになり、結局、世界史は途中で断念。
 社会人になったとき、私の世界史の知識は中学生の標準以下、という有り様でした。

 世界史の教科書で挫折した経験から、社会人向けに発刊された『もう一度読む山川世界史』を読んでみましたが、教科書の内容を端折っているので、教科書以上に内容が分かりにくい・・・。そもそも「もう一度読む」という本ですから、教科書を一度も読んだことのない自分に分かるはずがありません。

 そこで、「マンガで読む」「世界一分かりやすい」といった本を読んでみたところ、ようやく、最後まで読み通すことができました。
 とは言え、ぼんやりと流れがつかめただけで、教養として、つまり、質の高い思考や自身の成長につながるような理解には到底至らない。

 考えてみれば当たり前のことで、高校の頃は、中間・期末試験があるから仕方なく何度も教科書を読み、さらに問題集を解き、模擬試験を受けながら受験勉強をする・・という過程を経て、ようやく知識が定着したわけですから、たかだか1冊の分かりやすい本を読んだだけで教養が身につくはずがありません。

■試行錯誤によって、たどり着いたのが、大学受験予備校の「実況中継」でした。
 
 青木裕司 世界史B講義の実況中継①~④(語学春秋社)
  
 「実況中継」は4巻もあったのですが、冗談も織り交ぜた講師の語り口で、楽しみながら読み通すことができました。


■こんな学びの経緯を思い出したのは、最近、法律や裁判の歴史を調査して記事を書く機会があり、世界史の教科書や文献を参照したからです。

 「我思う故に我あり」の言葉で有名なデカルトのことなども調べる必要があったのですが、やはり「実況中継」の解説が一番分かりやすかったです。
 例えば、デカルトの二元論的世界観を、こんな風に解説しています。

デカルトはこう言うのです。「理性を持つ存在である人間は、自然一般とは違うのだ」。こうしてデカルトは自然と人間を切り離してしまいました。
  
デカルトが登場する以前の自然観では、人間も動物も植物もみんな自然の中で一緒の存在だった。(略)ところがデカルトは、人間は理性を持っているから偉いのだということで、他の存在から切り離してしまった。


 確かに、「人権」という言葉からも明らかなように、近代的な人間中心の思想・哲学が、今の憲法を中心とした法体系にも貫かれています。

 例えば、法律上の権利の主体となれるのは「人(人間、及び、人とみなされる法人等)」のみ。

 1995年、奄美大島でのゴルフ場建設に反対する住民たちが、特別天然記念物の「アマミノクロウサギ」なども原告団に加えて裁判を起こし、「野生生物を含む生態系そのものに、本来の姿で存在する権利がある」と訴えました。しかし、今の法体系の下では、動物は裁判の主体になれないため、訴えは却下(この裁判は、「アマミノクロウサギ事件」として知られています)。
 
 人間中心主義や二元論的世界観を乗り越えていくことが現代の課題であり、法律の世界でも、「人権」という概念を自然の側から再構築する必要があることは確かです。
 
 しかし、近代の“思想”を克服する必要はあるとしても、デカルトの“思考”は、現代もなお有用だと思います。
 異説を唱えれば火刑に処せられるような時代、天動説が信じられていた時代を生きたデカルトは、命の危険を感じながらも、その時代に当たり前とされていた価値観や世界観を全て疑いました。
 現下を生きる私たちも、来たるべき新時代に向け、既存の価値観を疑ってみることが大切です。

■「世界史」というのは、平和で安定した時期をすっとばし、激動の時代を記述した物語です。
 今も変化変容の時代。もう一度世界史を「学び直す」必要がありそうです。

(了)

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