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無神経な夫に黒魔術を【ショートストーリー】

「おい、しょうゆ」
「……」
「おい、おい! しょうゆ!」

都内の住宅街。築40年ほどの一軒家。
60代前半の夫婦が、夕食の時間を共に過ごす。

サブロウは、妻のサナエに向けて、繰り返し『しょうゆを取ってほしい』との旨を伝える。
サナエはその呼びかけに反応を示さない。

「おい、しょうゆ。しょ、う、ゆ!」
何度もそう言い続けるサブロウ。するとその呼びかけに、聞き覚えのない声が答えた。

「私を、お呼びかね?」
呼びかけに応えたのは、妻ではない。どこか気品の漂う、壮年の男の声。

サブロウはぎょっとした。この家には、妻と自分の二人しかいないはず。にもかかわらず、聞き覚えのない男性の、それも至近距離からの声が聞こえてきたのだ。恐怖を感じ、脂汗がどっと吹き出る。

「え? 誰だ? どこだ!」
サブロウは、必死に声の出どころを探した。自分の近くには、妻以外に人影はない。にもかかわらず、まるで目の前にいるかのようにはっきりと、声が聞こえる。

「ここですぞ、サブロウ殿」
声が聞こえた方向を見る。謎の男の正体を捉えた瞬間、サブロウはテーブルのだだ一点を、じっと食い入るように見た。

食卓の中心。ちょうど二人の間に、それはあった。とっくりのような形状のガラス製の容器に、黒い液体が満ちる。その赤色の帽子が、注ぎ口が、ぱくぱくと開閉しながら声を発している。

声の主は、『しょうゆ』。

「私の名はしょうゆ。貴殿はさっきから私の名を呼んでいるようなのだが……、何がご用かね?」
しょうゆは、さも自分がそこにいる事が当然であるかのように堂々と、それでいて紳士的に、サブロウに問う。

「うわああああ、しょうゆが喋った!」

サブロウは悲鳴をあげる。いつも通りの日常に、突然の怪奇現象。この動揺をどうしていいか分からずに、なかば混乱して妻に詰め寄る。

「おい、どういう事だこれは、しょうゆがしゃべってるぞ!」
「さあ」
サナエは、冷静だった。

「さあって! さあってなんだ!」
「大きな声を出さないでください。ほら、とりあえず座ってくださいな。ご飯が冷めてしまいますよ」
いつもと何ひとつ変わらぬ調子で、サナエは応える。なんだこれは。どうなっているんだ。自分だけがおかしいのか?

サブロウは、自分以外の二人。いや、『ひとり』と『ひと瓶』が、この異常事態に適応している事に、気味の悪さを感じる。

「……おまえさっきから妙に落ち着いて! 何か知ってるんだな!」
「何かって……、おしょうゆさんは、私が呼びました。それがどうかしました?」

サナエはあっさりと自白した。なんだこれは。開き直っている。俺に断りもせずに家に客人を招き入れておいて、それでいてこの態度だ。

……いや、待て。招き入れてはない。しょうゆは最初からそこにあったのだから、ある意味我が家の住人であって……。

いやいや。そうじゃない。喋るはずのないしょうゆが、喋っている。それが問題なのであって、それに今、サナエは『私が呼んだ』と言った。

サブロウは、どうにかこの奇妙な状況を理解しようと、必死で頭を働かせる。

「私が呼んだというのは何だ? どういう事なんだ? 説明してくれ」
「ああ、それはあなたのため、ですよ」

「何?」
「あなたいつも『しょうゆ、しょうゆ』って、呼んでいらっしゃるじゃないですか。だから思ったんですよ」

「思ったって……何をだ?」
「サブロウさん、そんなにしょうゆとお話ししたいのかなと思って。昨晩、呼んだんですよ。魂を宿したんですよ。黒魔術で」

サナエは、こともなげに言った。

黒魔術……? 黒魔術とは何だ。

「ななな何してんだ! 俺はただしょうゆって……」
「私はしょうゆではありません。さなえです」
サナエは、毅然とした態度でそう言った。

確かにサブロウは、しょうゆを取って欲しい時に、サナエの名前を呼ぶ事はなかった。ただ一言、「しょうゆ」と言っていた。

しょうゆ、しょうゆ、しょうゆ。毎日しょうゆと呼ばれるサナエの怒りは、昨日ついに限界を迎えた。

サナエは怒っていた。サブロウの、相手を尊重していると思えないその態度に。自分の名前すらも呼んでくれない、愛情表現の乏しさに。

これは、日々の夫の態度への「あてつけ」だ。言葉にしていなかった不満が、寂しさが、行き場を失い、サナエはついに黒魔術に手を出した。

夫婦のすれ違いは時として、妻を魔女に変えてしまうのだ。
これは、いつも『おとなしい妻』からの、突然の反撃。

「そうですよご主人。私とお話したかったのでしょう。私の名前は『ダイズ・タマリ・しょうゆ・キッコーマ17世』。しょうゆしょうゆと、さっきから私の名前を読んでいるではありませんか、フォッフォ」

「お、俺は! しょうゆをとってくれって意味で……!」
「あらそうだったのですか。なら、そう言ってくだされば良かったじゃありませんか」
「な……!」
小さな援軍を得たサナエは、もう昨日までのサナエではなかった。

「フォッフォ、その通りです! 愛する妻に対して、いかに紳士であるか。それこそがエレガンスであり、気品です。そうでしょう、ご婦人?」
「まあ、紳士だこと。私、おしょうゆさんと再婚しようかしら」
サナエが、とんでもない事を言う。

「ご冗談を! ご婦人、私を『ダシ』に使うおつもりですかな? 醤油だけに」
「あらお上手。 でもおしょうゆさん? おしょうゆはいつだって『主婦の強い味方』なんじゃなくって?」

「「あはははは!」」
二人は、見つめ合って大笑いした。
サブロウはその二人の勢いに、完全に置いていかれてしまう。

「とにかく、俺はしょうゆが欲しいんだ。もういい! しょうゆ、お前がこっちに来てくれ」
「おや、それは人にものを……人ではないが、頼む態度としては少々無礼ではないかね」
「しょうゆに見せる礼儀なんてない!」
サブロウは、なけなしの強気で必死に抗う。

「あらおかしいわね。私は人間だけれど、礼儀を尽くされた事、ないわ」
サナエが、すかさず追撃する。

「大変申し訳ない。私は自分で動く事は出来ぬのだ。ご婦人にお願いされてはいかがかな?」
しょうゆが続く。二人の猛攻撃にサブロウはなすすべもない。もはやこの議論において、風はサナエの側にあった。

「……分かった! もういい!」
サブロウは、椅子から立ち上がり、自室にこもってしまう。

次の日。サブロウは、やけに大きなテレビの音で目が覚めた。それ以上眠る事が出来なかったので起きる事にする。リビングの扉を開けたところで、先ほどから聞こえていたテレビの音が、突然、しんと鳴りやんだ。

「「「おはようございます、ご主人!」」」
数えきれないほどの沢山の声が、一斉にサブロウに向けて発せられる。

ダイニングのテーブルの上には、昨日のしょうゆが、ソースが、マヨネーズが、こしょうが。ありとあらゆる調味料が隊列を成してそこにいた。サブロウがテレビの音だと思っていた音は、彼らのざわめきであったようだ。

サナエは、増援を呼んだらしい。魔法陣を描いた画用紙が床に置かれたまま、カウンターキッチンには朝食の支度をする妻の姿。

この家はもはや魔女の館であり、サナエはこの館の女王だ。

「あらおはよう、早かったわね。すぐ、ご飯にしますね」
昨日と変わらない笑顔で出迎えるサナエに、サブロウは戦慄した。

ほどなくして朝食の時間。ダイニングテーブルは、まるでパーティー会場のように賑やか。調味料どうしが挨拶を交わし、会話に花が咲く。

サブロウは、だたひとり黙して食事。目玉焼きに手を伸ばした時、しょうゆが欲しいと思い手を伸ばす。しかしそれは絶妙に届かない位置に配置されており、指先が瓶に触れるだけで取る事ができない。

サブロウに一斉に視線が注がれる。テーブルの皆がその様子を見ている。だが、やはり届かない。

「あなた、どうかされましたか?」
サナエは言う。

「いや、いいんだ。自分で取るから……」
サブロウは小さな声でそう言って、立ち上がる。しょうゆを目玉焼きにぐるりとかけて、元の位置に戻した。

「ちょっと、散歩に行ってくるよ……」
手早く食事を済ませたサブロウは、玄関に向かう。
「「「行ってらっしゃいませ!」」」
お見送りの挨拶の声が一斉に注がれるも、「ああ……」と小さく返事をして、振り向きもせず家を出た。

サブロウは、公園のイチョウ並木を見上げながら、途方に暮れる。
俺は、黒魔術を使わせなければならないほどに、妻を追い詰めてしまった。
どうすれば、妻は納得してくれるのだろう。

その日の夜。しょうゆは、二人の様子を見かねてサナエに問う。
「奥様」
「ん? なあに、しょうゆさん」

「これからどうされるおつもりでしょう? まだ続けられますか」
「ええ。もちろんよ。あの方、まだ気づいてくれないの。私はただ、私の事をちゃんと、名前で呼んでほしいだけです」
サナエは言った。それは、紛れもなく本音の言葉。

「でしょうな。サブロウ殿は、それにいつ気付かれるか。……男性とは、鈍いものですから」
「そうね。あの方は特に。でも、サブロウさんが自分でそれに気付くまで、これは続けます」

「いやはや、恐ろしいお方ですな」
「あら、何が恐ろしいものですか。おまえとか、しょうゆとか。そうやって40年も呼び続けられた私の日々の方が、よっぽど恐ろしいわ」

「フォッフォ、いかにも!」
「さあ、仲間を増やしましょう。儀式よ」

今日もその家の窓からは、紫色の閃光が漏れる。

この街には、魔女がいた。

たった一言の気遣いを忘れた、鈍感な夫。
たった一言、愛の言葉が足りない事に気づいて欲しい妻。

夫婦の小さなすれ違いが生んだ魔女が、今日も魔力を解き放っていた。

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