ウロボロスの歌姫 [短編小説]

 俺と由梨は、家が隣同士の幼馴染だった。俺たちはお隣さんであることをいいことに、お互いの家を行き来していた。幼いうちは、単なる友達の家にちょっと遊びに行ってくるねという感覚だったが、俺が大きくなって、両親が勉強だの受験だのとうるさくなった頃には、自分の家にいるよりも、由梨のそばにいることが多くなった。一方、由梨の方も、俺の隣が心地いいのか−彼女の持ち前の内気さが災いして、友達はあまりいなかった−、いつも俺のそばにいた。

 ある日の帰り道。俺と由梨は夕映の海のそばを歩いていた。夕暮れの光の中、由梨は、歌っていた。彼女は、幼い頃から歌うことが大好きだった。その声は、どこか心惹かれるような、優しく透き通るような歌声だ。俺は昔から、この歌声が好きだった。聞いていると、日頃の嫌なことが忘れられそうな気がするから。
「由梨はいつも歌がうまいな」
「えー、そうかな」俺が褒めると、由梨は決まって照れ臭そうに笑った。
「そのレベルならプロになれるよ」
 由梨ははにかんだ。
「そんなことないよ」 
 そんなやりとりが俺たちのお決まりだった。でも、俺は本気で由梨の才能を生かしたいと思っていた。
 
 数日後。放課後の誰もいない教室に、甲高い声が上がった。
「え、動画投稿?」由梨は目玉が飛び出さんばかりに、目を見開いた。 
「うん」俺は椅子に腰掛けたままそう言った。
「U-castに君の歌っている動画をあげるんだよ」
 U-cast。世界中にユーザーがいる大型動画投稿サイトだ。そこではU-casterと呼ばれるプロからアマチュアの動画クリエイターたちが、ゲーム実況から、歌唱動画まで様々なジャンルの作品を投稿していた。
「やだよ、動画なんて。恥ずかしい」由梨は両手で顔を隠した。「私、下手くそだもん」
「いや、そんなことないよ」
「ヒロくん」由梨は顔を隠していた両手を離した。
「俺は音楽に対して何の専門的な知識もないど素人だけど……」
 俺は立ち上がって由梨の顔を見た。
「由梨の声なら、世界の人々の心に刺さると思うよ」
「えーと、お世辞じゃあ、ないよね」彼女は、俺の顔をじっと見返した。
「もちろんだよ」俺がそういうと、彼女はぱあっと、花が咲くような笑顔になった。
「ヒロくん、ありがとう」由梨は立ち上がった。
「いいよ。ヒロくんがそう言うならやってみる」
 
 それからというもの、俺は収録用の機材を買うために、アルバイトに励んだ。由梨の才能を世に広めるためなら、どんなにきつくてもがんばれた。そうしてるうちに、季節は夏から秋に変わっていた。

 
 部屋の中には切なくも、甘いメロディーが流れていた。今、U-castのいわゆる歌ってみたジャンルで人気の曲だ。イントロが終わりかけた時、その間ずっと目を閉じていた由梨が目を開いた。それと同時に呼吸の音が聞こえた。その瞬間、愛しいハニカミ屋さんは、歌姫に変貌した。歌う前はあんなにガチガチだった由梨は、歌が始まると同時に堂々とした態度に変わった。おそらく本番に強いタイプなのだろう。この時の由梨の声は、持ち前の優しく透き通ったものに加え、どこか堂々とした力強さを感じるものだった。
 
 ここは中休み中の教室。俺は昨日撮った動画を、クラスメイトの榊くんに見せた。彼とは隣の席ということもあって、よく話す仲だ。「す、すごいです」彼はどもりながらもそう言った。
「こ、これ、全部坂倉くんが作ったんですか」
「うん、そうだよ」俺はにっこり笑ってそう言った。それを聞いた榊くんは、輝く瞳で俺を見た。
「ぼ、僕もこういうの、つっ、作れるようになりたいです」
「なら、今度いろいろ教えてあげるよ」
 俺がそう言うと、彼は俺の手を握り、ありがとうございますと何度も言った。
 
 翌日。俺はU-castに昨日撮った動画を投稿した。最初は少しでも見てくれる人がいたらいいなと思っていた。しかし、見込みに反して、投稿から半日経った頃にはSNSで拡散されていた。その影響もあってか、閲覧数は急激に伸び、気がつけば急上昇動画ランキングに入っていた。
「ねえ、みてよ」授業の合間の中休み、俺は由梨の席まで行ってスマホの画面を見せた。それには由梨のページが映っている。
「私のページじゃない。それがどうしたの」 由梨は上目遣いに、俺を見た。
「よく見てみろ」俺は画面をスクロールし、その一角を指さした。それを見た彼女は目を見開いた。
「嘘、百人の人が見てる……」
 投稿から一日も経たずに、由梨の動画の閲覧数は百を超えていた。
「すごいよ、由梨」俺は彼女の肩を叩く。「このままだと、ネット世界の歌姫になれるな」
「やめてよ、ボーカノイドじゃないんだから」由梨はくすくすと笑った。
 
 それからというもの、由梨の動画はどんどん閲覧数を伸ばしていき、投稿から二ヶ月経つ頃には千を越えた。すごい歌姫が現れた。新星の登場に、各メディアはこぞって由梨を取り上げた。彼女の歌声がどんどん広がるのは嬉しかった。だが心の底ではどこか複雑だった。なんか由梨が自分だけのものじゃなくなってしまうような気がしたから。しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、彼女の才能は様々な人々の元まで届き、ついにはその筋で有名なところまで届くことになった。
 
 季節がさらに進んだ十二月のある日。由梨がこんな事を言ってきた。
「ヒロくん、私スカウトされた」
「はあ?」 俺がそう言うと、由梨はちょっと照れ臭そうな顔をしながら言った。
「こないだ、有名な芸能事務所の人から、うちでレッスンを受けてみないかってメッセージが来たんだ」
「へ、へえ……」俺は動揺を隠しながらも、こう言った。「で、どう返事したんだ?」
「もちろんオッケーしたよ」
「親御さんは許してくれたのか?」
「パパもママも、やりたいようにしなさいって言ってた」
「ふうん」
 口ではいかにも興味なさそうな感じであったが、内心は激しく動揺していた。なにせ、有名になってしまったから。
 
 それからというもの、由梨はレッスンを受けるために、学校が終わるとすぐに東京に行くようになった。そのせいか、今までは、放課後は必ず彼女と帰っていたのに対し、一人で帰るか、榊くんと帰る日が増えた。
「はあ、由梨に会いたい」
 俺がそう言うたびに、彼は、呆れたように俺を見た。
「い、一日くらい会えなくてもいいじゃないですか。明日学校で会えますし」
「でも、一日会えないだけでも辛いんだよ」
「ほ、本当に坂倉くんは、由梨さんのことが大好きですね」
 榊くんは、ため息混じりにそう言った。 そんな日々が続いた半年後、由梨は「yuri」という名義でデビューすることになった。

 翌年の五月。俺は、都内のライブハウスにいた。なぜ俺がそこにいるかというと、この日由梨が、ここで初めてのライブ−リリース記念のライブらしい−をするからだ。照明が暗転すると、穏やかな音楽と共に、ステージが明るくなり、緊張した面持ちの由梨が現れた。硬い表情の彼女は、遠くに俺の姿を見つけたのか、すぐに表情を和らげた。俺は口パクで由梨にメッセージを送る。
 が・ん・ば・れ
 それを見た彼女は笑顔で頷いた。そして由梨はステージの中心に据えられたマイクの前に立つと、大きく深呼吸した。
「こんばんは。yuriです」
 その表情は、初めて収録した日を思わせた。
 
 ライブ中の由梨は、いつもの気弱でおどおどした様子が嘘であるみたいに堂々としていた。クリーム色の長袖のドレスを纏った彼女は、まさに歌姫そのものだ。透き通った柔らかな歌声に、観客たちはうっとりと聞き入っていた。沢山の人が由梨の歌声をいいと思ってくれるのは嬉しかった。しかし、心のどこかでは、彼女がどこか遠くに行ってしまうような気がして、寂しさを感じた。まるで、自分の知らない由梨を見たような気がして、どこか切なくなった。
 
 デビューして数ヶ月後。由梨の曲はSNSやストリーミングを通じて高校生を中心に大ブレイクしていた。しかし、その裏でも彼女は努力を惜しまなかった。彼女は、仕事以外でも、ボイストレーニングなどの努力を惜しまなかった。その結果、由梨はオリコンチャート最高3位を獲得し、テレビに出るほどの人気者になった。そうしてる間にも、季節は過ぎ、いつの間にか年が明けて、気がつけば一月になっていた。3年生になっていた俺たちの周りでは、受験や就職などそれぞれの進路に向けて動き出していた。そんな中、突然の報せはやってきた。
 
「え、東京?」
 ある一番晴れた日の帰り道。
「うん。高校卒業したら行くって事務所と約束したんだ」
 由梨は、高校を卒業したら本格的に東京で活動すると言った。しかし、それは俺たち二人が離れ離れになるということを示していた。
「そっか……」
 俺は、小さく俯いた。
「でも、たまにはこっちにも帰ってくるから、寂しがらないでね」
 由梨は、俺の三歩先を歩きながらそう言った。俺は顔をあげてその背中を見る。三歳の時に出会って以来、ずっと見てきた背中。か弱いほどにほっそりとした愛しい背中だ。
 ああ、これから見れなくなってしまうんだと、思いながらそれを見つめていると、彼女はいきなり立ち止まって、俺の顔を見た。
「どうした?」
 由梨はそっと俺の顔を見ながらこう言った。
「ヒロくん、泣いてるの?」
「え……?」
 そう言われて、俺は自分の頬を触った。涙で濡れていた。
「泣かないで」
 由梨は俺の肩を優しく抱きしめた。
「私たち、これで永遠に別れるわけじゃないから」
「うん、ありがとう」
 俺は涙を拭った。
 
 二ヶ月後。卒業式から三日が経ったこの日
 、由梨は上京することになった。
「たまには、こっちにも帰ってこいよ」
 地元の駅のホームで、寂しさを堪えながら俺はそう言った。
「うん、わかってるよ」
 彼女はそう笑いながら電車に乗った。それが俺が見た最後の元気な彼女の姿だった。
 
 ***
 
 別れから一ヶ月後。俺は地元の国立大学に入学した。実は、由梨も頑張っているんだから、俺も頑張らなきゃなと、勉強に身を入れ、その結果、第一志望に合格したのだ。俺は忙しい大学生活の合間に由梨と連絡を取り合った。
「ヒロくん、大学頑張ってる?」
「ああ、頑張ってるよ。由梨は?」
「こっちは、ホールツアーのリハで忙しいんだよね」
「そっか……お疲れ様」
 こんなやりとりが常だった。しかし、お互い忙しくなるに連れて、だんだんと連絡の頻度が少なくなっていった。由梨がどんどんホールの規模を広げていき、俺が就活を始める頃には、メールの頻度は減っていった。そして俺が、大学の先輩の紹介で、彼が立ち上げた会社に就職した頃には、完全に疎遠になってしまった。俺はなんとかして彼女に連絡を取ろうとしたが、仕事が忙しく、中々取れなかった。そして、いつの間にか時は流れて、俺は二十四歳になっていた。
 
 一月のある寒い日。俺は急に由梨の顔が見たくなった。彼女は一応有名人なので、ネットで「yuri」と調べればおおよその最新の彼女の情報は見れるのだが、ここ最近の公式サイトは何故か十月のやつで止まっていた。さらに、公式SNSも同じく十月の投稿で止まっている。
 一体yuriはどうしたんだ? SNS上ではもっぱらこの話題で一杯だった。そんなもんだから、俺は直接会いたくなったのだ。そこで俺は、今度久しぶりに会おうと彼女にメッセージを送った。しかし、そんなにすぐには返ってこなかった。まあ、由梨のことだから、二日三日したら返ってくるだろう。最初はそう思っていたが、何故か一週間しても帰ってこなかった。
 
「はあ……」ここは都心に近い場所にあるオフィス。俺は机の上に肘をつきながらため息をついていた。
 一体どうしたんだ、由梨。
 そう思いながら自分のスマホと睨めっこしていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り向くと、背がひょろ高い狐目の男が立っていた。
「どうしたん、弘樹」
 そう言ってきたのは、俺の先輩にして、会社における上司である小松先輩だった。その顔を見た俺は、こうポツリとつぶやいた。
「実は、幼なじみからメールが来ないんですですよ」 
「ああ、由梨ちゃんやな」
 こてこての関西訛りで、彼は両手をポンと叩いた。小松先輩には、たびたび由梨の話をしていたのだ。
「自分のことで忙しいのかな」
 そう俺がつぶやいた時、後ろで声がした。
「ま、まさか、あ、あっちで彼氏とかで来たんじゃないですか?」
 そう言ったのは、俺の後ろでパソコン作業をしている榊くんだった。彼も俺と同じ会社に入ったのだ。
「こ、これは僕の推察なんですけど……」
 彼は、作業の手を止めずにさらに続ける。
「こ、こう言うのって、大体、どこかで大切な人が別にできるんですよ」
 榊くんの言う事は、たまに辛辣だ。
「そそそ、それはない」
 そう全力で否定した俺を見た小松先輩はこう言った。
「弘樹って、ほんま由梨ちゃん大好きなんやね」
 
 その日の夜。俺は、なかなか寝付けなかった。一度はあんなに否定したが、もしかしたら、先輩の言う通り、東京で恋人ができて、俺のことを忘れてしまっているのかもしれない。布団の中で一人、そう頭を抱えた。ああ、そんなんだったらどうしよう。天井を見つめながらそう考えていると、いきなり電話が鳴った。もしかしてと淡い期待を抱きながら見ると、画面に由梨という名前が映し出されていた。俺はよかったと思いながら、電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし、ヒロくん? 久々だね」
 それは紛れもなく由梨の声だった。
「由梨……」
 俺は、完全に泣きそうになっていた。
「ごめんね。返事返せなくて」
 久々に聞く由梨の声はどこかか細かった。
「一体どうしたんだ?」
 俺がそう言うと、少しの沈黙を経て、しゃくり上げるような声がした。
「私……死んじゃうかもしれない」
「え?」 
 信じられない話だった。
「子宮がんだって……もう全身に転移してる」
「どういう事だ?」
「去年の春に見つかったの。でも気づいた時にはもう手遅れだった」
「そんな……」
「私のせいなんだ。仕事が忙しいって言い訳せずにちゃんと自分の体に向き合ってれば」
 由梨の声は泣いていた。
「私、死にたくない。歌いたい」
 
 数分後。俺は天井を見上げながら、彼女を救うためにはどうすればいいか考えた。まず、俺は医者ではないから、病気を治せない。だから、自分にできることは限られている。それなら……
「そうだ」そこまで考えた時、ある素敵な考えが浮かんだ。
 
 次の日。昼下がりのオフィスに素っ頓狂な声がこだました。
「え……yuriさんをバーチャライズしたい?」
 そう言ったのは榊くんだ。
「うん」
 バーチャライズというのは、実在の人物を3Dスキャンし、コンピューター上にバーチャルヒューマンとして再現することだ。近年はCGの精度も上がり、本物の人間と区別がつかなくなった。今から二年前、小松先輩は、これから流行るであろうそれに着目し、バーチャルヒューマン専門のベンチャー企業を立ち上げた。一からそれを作ってモデルとして売り出したり、芸能人をスキャンして、バーチャル配信者にしたりと、扱ってる業務は様々だ。
「だ、だめですよ。私情を持ち出すなんて」
 そう言うのも無理はない。そう言われるのはわかっていたのだけど、譲れなかった。
「おれは救いたいんだ。彼女はどこにもいない、なににも代わりを務められない唯一の存在なんだ」
 榊くんは、口を真一文字に結びながら、俺を見た。他の社員も何も言わず、重苦しい空気が横たわる中、小松先輩が口を開いた。
「俺はええと思うで」
「小松先輩」榊くんは先輩の方を向いた。
「なんどか由梨ちゃんの歌、聞かせてもろたけど、あの声はだれにも真似できへん。弘樹の言う通り、失い難いコンテンツや」
「せ、先輩……」 
「だから、それをすべてバーチャライズして発表すれば、俺らの宣伝になるし、成功すればパイオニアになれるで」
 榊くんは何も言えなかった。その場にいた誰もが小松先輩を見た。
「榊、わかってくれるか?」
 全ての視線が榊くんに集まる中、彼はキョロキョロと周りを見た。そしてついに根負けしたのか、こう言った。
「わ、わかりました。や、やりましょう。はい」
 
 数日後。俺は報告を兼ねて、由梨のお見舞いに行った。入院先は由梨の親御さんに前もって聞いていた。
「あら、弘樹くん。久しぶりね」
 病室に行くと、由梨のお母さんが出迎えてくれた。
「知らせるのが遅くなってごめんなさいね」
 彼女は、困ったような笑顔を見せながら、俺を奥に通してくれた。中に入ると、巨大なアクリルガラスの壁が現れた。その向こうには、変わり果てた姿の由梨がいた。三年ぶりにあった彼女はさらに痩せほそり、肩まであった髪は短く刈られていた。
「ヒロくん」由梨は、身を乗り出さんばかりに、俺を見た。
「やあ、三年ぶりだね」
「ずっとだまっていてごめんなさい」
 由梨は、涙目だった。
「大丈夫だよ」俺はそう言いながらその辺にあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「由梨、聞いてくれ」
「何?」彼女は、桜色のパジャマの袖で涙を拭いながら言った。
「君が永遠に生きられる方法を見つけたんだ」
「私が生きられる方法?」
 由梨は急に眼を丸くした。
「うん」俺は昨日みんなにしたのと同じ話を由梨に話した。
「えーとつまり……」
 彼女は、人差し指をこめかみに当てた。
「私の姿をすべてコンピュータにうつすってこと?」
「そう」俺はさらに続ける。
「データ化した君の姿と声がコンピュータ上に残れば、たとえ君の肉体が亡くなっても、君の存在は永遠にそこにあり続ける」
「……ありがとう、ヒロくん」
 由梨は、泣いていた。今度は嬉し泣きだ。つられて泣きそうになるのを堪えながら、俺はさらに続ける。
「用意は全部できてるから、すぐにできるけど、いつがいい?」
 俺がそう訊くと、由梨は顔をあげた。
「そうだね……」彼女は目を上に向けた。「できれば明日明後日がいいな。来週にはモルヒネ治療が始まっちゃうから」
「そうか。なら……」
 俺はメガネを指であげた。
「明後日にしよう。お母さんには、俺から言っておくから」
 
 二日後。
「こんにちは」
 由梨は外泊を使って俺の会社にやってきた。この日の彼女は、クリーム色のワンピースに、地毛と同じ焦茶色のウィッグをつけていた。スタジオに行くと、小松先輩が出迎えてくれた。
「どーも、由梨ちゃん。今日はよろしゅうな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 と、由梨は丁寧なお辞儀をした。その姿に感激したのか、小松先輩は目を細めた。
「弘樹、ええ子やなぁ。この子」
 ふと隣を見ると、由梨が赤面していた。
 
 数分後。由梨は本番さながらの煌びやかな衣装を着てスタジオに現れた。
「ま、まずはこの中に入っていただけますか」
 まずそう言ったのは、榊くんだ。彼の前には、丸椅子をぐるりと囲むようにたくさんのカメラが置いてある。
「これは一体……」由梨は首を傾げる。
「こ、これで由梨さんの身体を隅々までスキャンすり、するんです」
 榊くんは、いつも以上にどもっていた。知り合いとは言え、やはり緊張するのだろう。
「へえ」
 由梨は、中心に置かれた丸椅子に座った。そのタイミングで、榊くんが機材を動かした。
「えーと、まずは、座った状態で、アップをスキャンします」
「はい……」
 しばらく待つと、カメラが起動し、一斉にレンズが由梨のほうを見た。
「しばらく動かないでくださいね」そう榊くんがパソコンを操作している横で、俺は言った。
「由梨、そんなに緊張しなくていいよ」
 それを聞いた由梨はすぐに緊張を緩めた。やっぱり根が素直なのだ。
 
 カメラは、彼女の頭の上から二の腕までの部分を舐めるように捉えていた。それと同時に、榊くんのパソコンの画面では、スキャンした由梨のデータができつつあった。次は、全身のスキャンに入る。 
「ま、まずは、両手両足を広げた状態で待っててください」
 榊くんにそう言われるがまま、由梨は両手と両足を広げた。「これでいい?」
「おっ、オッケーです」
 そのタイミングで、カメラが再び起動し、再びスキャンを始めた。頭からつま先までをスキャンした後、彼は由梨に次は後ろを向くように指示した。彼女が後ろを向くと、同様に、スキャンした。
「はい、スキャンはこれで終わりです」
 榊くんがそう言うと、由梨は少し疲れた様子で出てきた。
「大丈夫?」俺がそう言うと、由梨は笑顔で大丈夫と言った。

 数分後。由梨と俺はレコーディングブースがある部屋にいた。次は声の収録だ。
「えーと、歌えばいいのかな」由梨は、慣れ親しんだマイクの前に立ちながらそう言った。
「いや、歌わなくていい。まずはあからんまで収録するよ」
 俺は機材を操作しながらそう言った。
「じゃあ、いくよ。最初はあ行から」
「うん」
 由梨は、透き通るような声で、あから、おまで言った。「これでいい?」
「うん、いい感じだ」
 その後も、か行、さ行、た行を矢継ぎ早に収録した。
「由梨、疲れてないか?」俺がそう言うと、彼女はガラス越しに親指を立てた。疲れていない証拠だ。俺は安堵のため息をついた。由梨はこれでも病人の身だ。だから疲れさせるわけには行けないのだ。しかし、長時間の収でも、永遠に生きられるという思いが、由梨を突き動かしているのは事実だった。
 
 一時間後。声を全部収録した俺たちは、オフィスで完成したばかりの由梨の3Dデータを見ていた。画面の中の彼女は、まさに本物そのものだった。
「これで私、永遠に生きられるんだね」
 画面の中の自分を見つめながら、由梨はそう言った。
「うん、そうだよ」
 俺は由梨の肩に手をやった。
「ありがとう。ヒロくん」
 由梨は俺に身体を寄せた。
 
 収録から三日後。由梨のモルヒネ治療が始まった。もう癌が完治することは、彼女の家族にとって、望み薄だったが、当の本人は希望に満ちていた。薬の効果で、朦朧とした意識の中で、彼女はよくこう言った。
「お父さん、お母さん。悲しまないで。私が死んでも、いつでも会えるから」
 ネットの海に永遠の生を得た由梨の顔はどこか晴れやかに見えた。
 
 モルヒネ治療が始まってから一年後。由梨は起きてることが少なくなり、眠っていることが増えた。俺は、忙しい合間を縫って彼女と一緒にいた。そんな日が続いた三月のある日のこと。いつものように、病室を訪ねると、久々に由梨が起きていた。
「ヒロくん」
 彼女は目だけを俺に向けた。
「由梨……」
 辺りは静かで、酸素マスクがシューシュー言う音がだけが聞こえていた。
「私と出会ってくれてありがとう」
 かぼそかったが、はっきりとそう聞こえた。「俺も、由梨と出会えてよかったよ」
 由梨は眠たげに微笑んだ。そして彼女は、少し苦しげに深呼吸した後、こう言った。
「ヒロくん、大好き」 
 それが、この世界における、最期の言葉となった。この後、由梨の心臓はゆっくりと止まっていった。
 
 
 ここは浜辺のステージ。その上に、大歓声に包まれて彼女は現れた。人魚を思わせる青いドレスに身を包んだ彼女の名前はyuri。彼女は、リアルとバーチャルの境目を超えて活躍するバーチャルヒューマンシンガーだ。今までは普通の人間の歌手として活動していたが、半年前にバーチャルヒューマンへの転身を発表した。結構有名な歌手がそうなるのは、初めての例だったが、世の中では結構好意的に受け止められた。
「こんにちは。yuriです」
 少し棒読み調だが、そう元気に挨拶したyuriは、人間時代と変わらぬ歌声で会場を盛り上げた。
 
 VRゴーグルを外すと、西日が眼を刺した。俺は、さっきまでこれを通じてyuriのライブを見ていたのだ。俺は一回伸びをすると、窓の向こうの空を見た。
「よかったな。由梨」
 俺は向こうにいる彼女に向かってつぶやいた。  

(完)

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