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MERCURIUS 第一話

あらすじ

とある街に落ちてきた隕石。それには液体金属状の未知の生命体がついていた。メルクリウスと名付けられたそれは研究所に研究対象として保護されるが、警備員の体を飲み込んで逃走してしまう。人間の体を得た彼は、行く先々でいろんな人に出会い、学び、成長していく。




 その日は、よく晴れていた。
 季節は初夏で、空にはロールパンみたいな形の雲が呑気そうに浮かんでいた。そんな青い空の下で、一組の老夫婦が公園のベンチに座って弁当を開いていた。夫の定年退職以来、二人はこうして弁当持参で公園に散歩に行くのが日課になっていた。ちなみにこの日の弁当の中身は、妻お手製のおにぎりと卵焼きだ。
「んー、今日もうまいなぁ」
 老人は口いっぱいにおにぎりを頬張った。その横では、妻が水筒からお茶を淹れている。おにぎりの中身は塩ジャケで、噛めば噛むほど、適度にしょっぱい風味が口の中に広がった。青い空に美味しい妻の手料理。いい天気も相待って、のどかな空気が漂っていた……少なくとも、この時までは。
「ん?」
 卵焼きを食べていた老人は、ふと空を見る。青い空のかなたで、何かがきらりと光ったような気がした。
 飛行機か?  老人は首を傾げた。
「どうしました?」
 妻は横から老人の顔を覗き込む。
「いや、なんでもないよ」
 老人はそう言うと、お茶を飲んだ。

 同じ頃。公園から少し離れた中心街をスーツ姿の女性が歩いていた。歩きながらふと空を見ると、空の向こうで何かが光ったのが見えた。
 なんだろう。 彼女は思わず立ち止まる。
 珍しいな、こんな時間に流れ星なんて。
 女性は、見上げながら目を細めた。道路を挟んだ向かい側では、青いリュックを背負った若い男性が立ったまま空を見上げている。さらに数メートル先では、スーツ姿のサラリーマンや、宅配便の配達員も同様に空を見ていた。彼女を含む、その場にいた多くの人々が見守る中、光は彗星のように尾を引いて向こうへ消えていった。

 
 次の朝。氷川君一は、朝の高速道路の渋滞に苛立っていた。彼の自宅と職場は一般道路で行くと、二時間の距離にあった。非効率的な事を好まない主義である彼は、高速道路を使っていた。一般道だと二時間かかるところを一時間に短縮できるからだ。ただ一つ難点をあげるなら、朝は同じく職場に向かう車たちで混むことくらいだった。
 そしてこの日も、案の定混んでいた一向に進まない車の中で、氷川は苛立たしげに指でハンドルを叩いていた。こうやってイライラするのはいつもの事だが、今回は一分も早く職場につきたい思いがあった。その事もあってか、フィンガータッピングだけではなく、歯軋りも加わった。時間が経つにつれ、ハンドルを叩くリズムは激しくなり、眉間と広い額にはシワが刻まれた。
 歯が擦り切れるほどイライラが最高潮に達したその時だった。ようやく列が動いた。氷川はため息をつきながらハンドルを握り直した。

 氷川の車が職場に到着したのは、自宅を出発してからギリギリ一時間経った時だった。
 駐車場に車を停めて、しばらく歩くと、立派な石造りの正門が彼を出迎えた。それにはこう書いてある。
 <森野総合研究所>
 それこそが彼の職場であり、彼がトップ、つまり所長を務めている場所だった。門をくぐると、緩やかな坂道に差し掛かった。氷川は、それを足早に駆け上っていく。坂道でさえも今の彼にとっては煩わしかった。坂を上り切るとガラス張りの近代的な建物が目の前に現れた。氷川は駆け足で中に入る。
「所長!」
 中に入ると、白衣姿の男性職員が出迎えた。氷川は右手を軽く上げて彼に近づく。
「例のあれはどうなってますか?」
 癖毛気味の黒髪に丸メガネの彼は、氷川の質問に、鼻の穴を大きく膨らませた。
「実は、おもしろいものが見つかったんです」 「ほう……」
 氷川はメガネをあげた。
 数分後。氷川は、先程のメガネと共に建物の二階にある部屋へ向かった。中に入ると同じ白衣を身につけた若い研究員たちが部屋の一角に身を寄せ合って何かを見つめている。
 氷川は、ゆっくりとその前に歩み寄る。さいわい彼自身の身長がずば抜けて高かったため、誰かの頭が邪魔には泣かなかった。目の前の机の上に置かれたシャーレ。その中には男性の握り拳大の石が入っていた。もちろん丁重に扱われてる状態から、いわゆるどこにも転がっているようなただの石ではないのは誰が見ても明らかだった。
 今から遡ること数時間前、一筋の流れ星がこの街の空を駆け抜けた。謎の流れ星は、田んぼの上に落ちると、そこに大きな穴を作った。その流れ星の正体こそがこの石だった。氷川は、隕石をじっと見つめていた。その目は、狐のように釣り上がった目の印象もあってか、どこか冷たく感じた。周りにいた研究員たちは、身をこわばらせながら氷川の次の言葉を待つ。すると彼は、隕石に向けていた視線を隣のメガネの研究員の方へ移した。
「これが、君の言っていた面白いものですか、庄司くん」
 氷川は静かな声でそう言った。静かだが、なんの感情も感じられない冷ややかな声だ。庄司と呼ばれたメガネの研究員は、ビクッと体を震わせると、無言で隕石が入っているシャーレの横を指差す。その方には、これまた小さいビーカーがあった。よく見ると、その中には、銀色のスライムのようなものが入っていた。
「ふむ……」
 氷川は、中がよく見える位置に移動する。銀色のスライムは、蛍光灯に照らされてキラキラと光っていた。
「ビーカーを指で叩いてみてください」
 庄司に言われ、氷川は指でビーカーの側面をコツン、と叩く。すると、スライムがぴくりと動き、ビーカーの中を形を変えながら動き回っていた。
「先ほどの隕石の表面に付着してました。おそらく新種の液体金属生命体と思われます」
 そう説明する庄司の横で、氷川はうっとりと目の前の生き物を見つめた。
「美しい……」

 それからというもの、森野総研では、この不思議な生き物に関する研究が行われた。氷川は、生き物にメルクリウスと名付け、最初に発見した庄司こと、庄司正孝を主任とした。
 庄司をリーダーとするチーム内では、メルクリウスに対して様々な実験が行われた。その結果、メルクリウスの体を構成する金属は、水銀やセシウムなど、地球上にある金属とは違うもので、他の金属を吸収することで自らを強化するということがわかった。しかし、その生態はいまだに謎が多く、さらなる実験による解明が待たれていた。まさに順調といった中で、氷川の中では、ある欲望が渦巻いていた。それはまるで子供の純粋な好奇心のようなそんなものだった。
 みんなの前で口にしたなら、総スカンを喰らってしまうのかもしれない。
 頭の片隅ではそんな考えもあったが、理性的な考えができないほど、欲望は強くなっていった。

 メルクリウスの飛来から数週間が経ったある夕方。氷川は庄司を所長室へ呼び出した。庄司が中に入ると、氷川が窓の前に立っていた。窓の向こうには研究所のある馬幌市の町並みが広がっていた。
「素晴らしい景色だと思いませんか、庄司くん」
 夕焼けに照らされる街を見つめながら、氷川はそう言った。
「ええ……」
 庄司は窓の外に視線を移す。ここ馬幌市は、東京から少し離れたところに位置する街だ。
 どちらかといえば、世界に誇れるような伝統的なものだったり地場産業みたいなものはない。とにかく何もない、普通のごくありふれた街だ。そんなありふれた町並みを素晴らしいとか言うなんて、なんかおかしい。
「どういう意味です?」 彼がそう言うと、氷川はニヤリと笑った。
「実は、素晴らしい実験プランがあるのです」

 数分後。氷川から全てを聞いた庄司は体をわなわなと震わせた。
「できません」 庄司にとってその提案は、人として許せないものだった。
「そんなことをしたら、たくさんの人に迷惑がかかります」
 しかし、庄司の否定の言葉にも氷川は揺るがなかった。
「庄司くん、これは絶対命令です」 氷川は切れ長の目をさらに細めた。
「君がそう言うのなら、今すぐ研究チームから外してやってもいいんですよ?」
 研究チームから外れる。それは実質降格に近いことだった。
 だめだ、この人には何もやっても効かない。 庄司は諦めた。
「わかりました」
 
 メルクリウスが来てから二ヶ月が経ったある日の夜。その日の業務が終わり、研究員や他の職員が帰ってしまった研究所は、全てが眠り込んでしまったかのように静かだった。
「ふわあ……」
 川口廉は廊下を歩きながら大きいあくびをしていた。彼は、ここの警備を仕事としていた。しかしいくら仕事とはいえ、毎日同じ場所を見回るのは、少し退屈な作業だ。いつもなら彼の二年先輩である宮田と一緒に回るのだが、この日は、事務作業があるから、と突っぱねられ、一人で見ることになった。廉は全てのフロアを一通り回った後、最後の確認ポイントである研究室に向かった。そこでは、最近落ちた隕石に付着していた新種の生き物に関する研究が行われていた。
 廉は、部屋の鍵の確認をしようと扉に近づく。
「あれ……?」
 廉は、顔をしかめる。いつもならしまってあるはずの部屋の鍵がなぜかしまってなかったからだ。不審に思った彼は、中に入る。部屋の中は静かで、散らかっているものひとつもなく、別に不審者が入った形跡なんてものはなかった。上に目をやると、防犯カメラのレンズがこちらを見つめていた。これは守衛室にあるモニターと繋がっていて、自分たちが目を離している時でも一発で急行できるようになっている。
 最後まで残っていたやつの不注意だろう。
 廉はそう考えると、部屋を出ようとした。その時、どこかからガタッという音が聞こえてきた。なんだと思って立ち止まると、また同じ音がした。よく耳をそばだてると、それは部屋の奥からだった。何だと思い、彼は奥へ進んだ。

 人っ子一人もいない暗がりの中に、ひとつだけ明るい一角があった。そこにあったのは、小さな机に乗ったガラス製の円筒ケースだった。廉は、ゆっくりとそれに近づく。暗闇の中で目を凝らすと、中で何かが蠢いているのが見えた。
 スライムだ、と彼は心の中でつぶやいた。ケースの中で蠢いていたのは、握り拳大の銀色に輝くスライム状の生き物だった。その側面には、メルクリウスと書かれたラベルが貼ってあった、おそらく、これがそいつの名前だろうと、廉は思った。
 これが、今白衣の連中が夢中になっているやつか。なんかキモいな。
 彼はそれを横目に見ながら部屋を出ようとした。その時、ガチャン、という音がした。慌てて振り向くと、恐ろしい光景が目の前に広がっていた。なんと、メルクリウスがテーブルの上にいたのだ。警備員は足がすくみそうになるのを堪えながら、なんとか部屋を出た。そして彼は、震える手で鍵を閉めた。
 これで大丈夫だ。
 廊下の壁にもたれながら大きく息をつき、激しくなっていた胸の鼓動を抑える。
 とりあえず、明日になったら報告しよう。そう思いながらまた歩き出したその時だった。何かひやりとした冷たい感触が警備員の右足に絡みついた。

「えっ……?」
 驚く間も無く、廉はそのまま転んでしまった。彼は上半身を何とか起こして足元を見る。
「……っ!」
 廉は目に入ってきたものを見て、ひゅっと息を呑んだ。彼の視線の先には、扉の下からまさに右足に絡みつかんとするメルクリウスの姿があった。
 廉は慌ててそれを振り払おうと足をブンブン振る。しかし、時すでに遅しで、足元は銀色のヌメヌメに覆われていた。メルクリウスはそのまま太ももや尻を覆い尽くした後、今度は胴体にまとわりつき始めた。
「ちょ……」
 メルクリウスは、驚く廉を尻目に背中やへそを一気に包みこむ。この時、最初は握りこぶし大の大きさであったそれは、彼の制服にある金属の部品を吸収し、さらに大きくなっていた。
「誰か……助けて」
 廉はそううわごとのように呟きながら、唯一拘束されていない両手で床に這いつくばった。とりあえず下にいる宮田のところへ行こうと、匍匐前進の要領で入り口に向かおうとした。しかし、その間にも、上半身は順調に飲み込まれていた。両手を全て飲み込んだメルクリウスは肩から首までをさらに飲み込んだ。完全に絶望した廉は、観念したのか目を閉じた。まさか、自分の人生がこんな形で終わるなんて。スライムに飲まれて死ぬなんて、とんだダーウィン賞ものだ。
 ああ、俺は人類で初めてスライムに飲まれて死んだ人間として、語り継がれていくんだ。
 廉がそう思った瞬間、メルクリウスは、有無も言わさず、廉の顔を飲み込んだ。

 廉を飲み込んだメルクリウスは、さらに巨大な姿になった。中にいる彼を、咀嚼し、そして吸収するかのようにぐねぐねと自らをこねくり回す。パン生地よろしく白い床の上を転がり回った後、突然粘土の塊のようなその体を平たくし、そしてそのままの状態でプルプルと身を震わせると、表面に変化が現れた。鏡のような表面が波打ったかと思うと、ゆっくりと盛り上がった。
 盛り上がった箇所は少しずつ大きくなっていき、次第に人間が膝立ちになったようなシルエットを形作った。頭は丸坊主で、顔には凹みしかない液体金属の泥人形は、ゆっくりと立ち上がる。すると、丸坊主の頭が盛り上がり、髪の毛を形成しだし、のっぺらぼうの顔には、すっと通る鼻筋や、閉じられた目など、顔のパーツが浮き上がり、徐々に人間らしくなってきた。さらに、平坦だった体にはへそや胸など、体のディテールが浮かび、銀色のマネキンから純銀製の等身大像といった印象になった。
 しかし、変化はここで終わらなかった。今度は指先が肌色に変わった。肌色は手の甲や二の腕を経由して全身に渡り、しまいに人間と同じ姿になっていた。その姿は、髪と瞳の色以外は先ほど飲み込んだ相手と瓜二つだった。完全に変化を終えたメルクリウスはゆっくりと閉じていた目を開く。彼の視界は最初はぼやけていたが、何度か瞬きをしていると、はっきりし出した。最初に目に入ったのは、意外にも両手だった。
 彼は両方の手を閉じたり開いたりして、扇のようにひらひらと動かす。メルクリウスはしばらくそうした後、全裸のまま部屋を出た。

 その頃。
 研究所の一階にある守衛室で宮田は、自分のスマホでお笑い動画を見て大笑いしていた。彼は、夜になると、事務作業があると嘘をついてこうして動画を見たりしてサボっていた。
 宮田は、後輩である廉を自分が楽するための道具にしか思っていなかった。幸い相手は、基本優しくしてればころっといく人懐っこいタイプだったので、彼には扱いやすかった。
 いやあ、今日も素直に応じてくれて助かるなあと思いながら、コーヒーを飲んでいると、どこからか足音が聞こえてきた。

 おっ、誰か来たな。  そう思った宮田は、窓口へと出た。  「あ……」
 目の前に現れた人物を見た彼は、ポカンと口を開けた。そこにいたのは、今見回りに行っているはずの廉だった。しかも一糸纏わぬ姿でだ。
「おい、どうしたんだよ、そんな姿で」
 廉はうつろな目で宮田を見返していた。入り口の蛍光灯に照らされたその姿を見た彼は、なんか違うと感じた。極端に白い髪。生気が感じられない顔。これは……。
「お前、誰だよ?」
 宮田がそう聞いた途端、廉――正確に言えば彼に擬態したメルクリウスは、先輩の顔を殴りつけた。
「お……おい!」  下っ端のくせに、生意気な事しやがって。
 そんな事を口走ろうとした宮田の口は、メルクリウスの鮮やかな蹴りによって塞がれてしまった。彼は、そのまま仰向けで失神した。

 宮田を気絶させたメルクリウスは、守衛室に入った。彼は常に防犯カメラの映像が映っているモニターに目もくれず、机の脇に吊り下げられているカードキーを手に取る。これは、研究所の入り口の戸締りに使われるもので、なくしたらいけないくらい大事なものだった。その後、メルクリウスはすみっこのハンガーにかけられていた深緑色のベンチコートを羽織ると、部屋を出た。

 数分後。メルクリウスは駐車場へ向かう坂道を走っていた。全速力で走りながら、彼は胸いっぱいに外の空気を吸い込む。ずっと酸素のない宇宙を彷徨っていた上に、それまでは肺も心臓もないただの液体金属の塊だった。だから、こうやって空気を味わえるのは彼にとって新鮮かつ刺激的だった。彼はそのままの勢いで駐車場まで駆け降りると、入り口においてあったミニバイクに飛び乗った。刺さったままになっている鍵を回すとブルンブルンとエンジンが小気味よく鳴った。メルクリウスはそのままハンドルを握ると、そのまま夜の街に向けて走り去っていった。

 湊川。馬幌市の中心部にあり、街一番の繁華街だ。ここは、ホステスを連れている羽ぶりの良さそうな中年男性や、徒党を組んで戯れているガラの悪い若者たちが溢れに溢れた闇鍋だ。その中に入ったメルクリウスは、周りを見回しながら歩いていた。ギラギラと輝くネオンや、立ち並ぶ店と店の間から漂う独特の匂い。そして、この季節特有の湿った風。頭がくらくらするような感覚がした。彼は思わず立ち止まる。壁に手を当て、できたばかりの肺に空気を送り込む。酸素が脳に行き渡り、ようやくぼやけていた頭がはっきりし出したその時、どこかから甲高い叫び声が聞こえてきた。見ると、赤いワンピースを着た女性が、青いTシャツを着た若い男に手首を掴まれていた。その後ろでは男の仲間なのか、同じ年くらいの男たちがニヤニヤ笑っている。
「ねえ、やめてよ」 女性は嫌そうに言った。 「少しぐらいいいだろ」
 男は、ニヤニヤしながら返す。それを見ていたメルクリウスの中で、何かがざわめいた。なんとしてでもこいつらを排除しなければならない。気がつけば、彼は男の後ろに回っていた。
 
  早く帰りたい。
 高坂綾は、猛烈に不機嫌だった。目の前のチャラついた笑顔。三日月のように細い目や、口元の笑い皺までその全てが彼女の心を苛立たせていた。できることなら今すぐにでも逃げたいところだが、今の彼女は右手首を掴まれている状態のため、そんなことができずにいた。
「なあ、いいだろ」
 腕を掴んでいる男は、この近くにある街で一番大きな公園である中央公園に屯している少年たち––綾の周りではチューコーキッズと呼ばれている––の一人だ。中央公園では、ここ最近になって非行少年少女の溜まり場になっており、湊川周辺の人々を悩ませる存在だった。
 綾もその一人で、ことあることに、チューコーキッズに声をかけられてはホテルに連れ込まれそうになるということに悩まされていた。そしてこの日もいつもの少年たちに連れ込まれそうになっていた。
「頼むよ、今回はできても責任取るからさ」
 この言葉に説得力がないのは丸わかりだった。何せ彼は綾よりも一回り年下で、責任というものを理解していない年頃なのだ。彼のようなこの辺に屯している不良たちは、綾にはただ身の丈以上に背伸びしようとしている子供のように見えた。
「ねえ、やめてよ」
 綾は、子供を叱りつける親のような目で少年をきっと睨みつける。
「少しぐらいいいだろ」
 彼は歯を見せて笑う。その幼気な顔には似合わないタバコのヤニで黄色くなった歯が薄暗がりに浮かぶ。
 もうだめだ。こいつらには何も言っても聞かない。
 綾が覚悟を決めて目を閉じたその時だった。彼女の手首を掴んでいた手が急に離れた。それと同時に、おい、大丈夫かと明らかに慌てた声が聞こえてきた。恐々と目を開けると、綾の数メートル先で少年が倒れていた。その周りには取り巻きたちがしゃがんでいる。一体どうなってるの、とポカンと突っ立っていると、どこかから視線を感じた。見ると、深緑色のコートを着た少年が立っていた。髪は銀色で、瞳の色もこれまた銀色だった。年齢はおそらく少年たちと同じくらいの彼は無表情のまま、綾を見つめていた。彼女はそんな彼を見つめているうちに、もしかして、と思った。
「ねえ、君が助けてくれたの?」
 すると、銀色の少年は首を傾げた。どうやら、綾の言っていることが理解できていないようだ。
「ほら、あいつらを君がボコボコにしてくれたじゃない」
 綾が右手で不良少年たちを指差しながら、逆の手で拳を作って前後に動かして見せると、彼はようやく言いたいことが飲み込めたのか、首を縦に振った。
「ありがとう、助かったよ」
 綾は少年の両手を握る。彼は照れるそぶりも見せず、無表情のまま彼女の顔を見つめていた。
 もしかして、これだけじゃ嬉しくないのかな?
 そう思った綾は、なんとかしようと、こう言った。
「そうだ、お礼になんか奢ってあげようか」 少年はチラリと綾の顔を見る。
「お酒とかなんでも奢るよー」 「お、ご、る?」
 少年は片言のようにそう言った。 「そう、お・ご・る。さあ、何がいい?」
 綾がそう言うと、少年は黙り込んでしまった。 ああ、これはあれだな。
 八年も夜の蝶をしてきた綾にとって、相手の心理を探ることは朝飯前だった。
「うーん、仕方ないなあ」 彼女はわざとらしく腕を組んだ。
「だったら、お姉さんが決めてあげるよ」 少年はポカンと綾を見た。
「いい店たくさん知ってるんだあ」 綾はそう言うと、少年を手招きした。

 綾が少年を案内したのは、路地にある瀟洒なバーだった。カウンター席に座った少年は、居心地が悪いのか、周りを忙しなく見回していた。
「ふふふ、緊張しなくていいよ」
 綾には、少年のリアクション全てが可愛く見えた。 まるで子犬みたい。
 きゅんときた綾は、思わず少年の頭を撫でてしまった。少年は驚いて綾の顔を見る。
「ごめんごめん、可愛くてつい撫でちゃった」
 そう笑う綾の顔を、少年はいつまでも不思議そうに見つめていた。

 数分後。二人の目の前には二人分のグラスが置かれていた。それには真っ赤な飲み物が入っている。
「これはレッドアイっていうお酒よ」 綾は少年に見えるようにグラスを見せた。
「んー、美味しい。やっぱり仕事前にはこれに限るわー」
 少年は、グラスと綾の顔を見比べた後、恐る恐る一口飲んだ。甘酸っぱい風味が彼の舌を刺激した。でも、そんなにきついものではなかった。
「どう、美味しいでしょ?」 綾のその問いかけに対し、少年はこう答えた。
「美味しい」
 レッドアイがそんなに気に入ったのか、彼はそれを何度もおかわりした。その様子は、最初に注文した綾が引いてしまうほどだった。
「ちょっと……そんなに飲んで平気なの?」
 結局、少年はレッドアイを五杯お代わりし、酔い潰れて眠ってしまった。

(続く)


第二話

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