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MERCURIUS 第二話

 次の朝。
 冷たい雨が車のフロントガラスを叩きつけていた。しかし、天気とは裏腹に、雲の隙間からは一筋の光が漏れていた。
 松山舞子は、愛車のハンドルを握りながら、信号が青になるのを待っていた。車内には、車のスピーカーを介して彼女のスマートフォンに入っている曲が流れている。流れているのは、松山の好きなバンドの新曲だ。物悲しげなメロディーがまさに今朝の空にぴったりだった。
 ふと、前に目をやると、バックミラーに映る自分の顔と目があった。眉間に皺がよった険しい表情。さらに目の下には隈。お世辞にも疲れているとしか言えない表情だった。
 ちゃんと十一時には寝てるんだけど。
 そんな事を考えているうちに、信号が青になった。アクセルを踏んで前に進む。

 車から外に出ると、生ぬるい風が吹いた。松山は思わず着ているブラウスの上のボタンを外す。額に浮かぶ汗を拭いながら、彼女は目の前の建物を見上げた。堂々と青空の下に佇む白亜の塔。
 馬幌警察署。
 そこが松山の職場――ではない。彼女の職場は、よりもっと上の立場であるN県警本部だ。松山はそこの一番の花形で捜査一課のメンバーだった。
 彼女は大学を卒業してすぐ警官になり、地元の警察署で、真面目にひたむきに頑張り続けた。結果、交番から刑事へとステップアップした。そんな中で、署長から県警の捜査一課で頑張ってみないか、と言われたのが今から五年前のことだった。それからの日々は目まぐるしく、試験や厳しい研修を経て松山は捜査一課に入った。以来、努力や研鑽を積み重ね、今では一度大きな事件が起きれば、休む暇もなく現場へ向かい、手がかりを掴むまでその場から去らない日々が続いていた。
 そんなもんだからあんな酷い顔になるわけである。気づけば周りの友人たちは次々と結婚していき、実家の両親にもそろそろじゃないのと心配されるようになった。それでもやりがいはあるし、毎日が充実していた。

 署の二階にある会議室にはもうすでにたくさんの人が集まっていた。
「ねえねえ、今夜どっかに飲みに行きません?いいとこ見つかったんすよー」
 中に入ると、甲高い声が聞こえてきた。この声に、松山は聞き覚えがあった。彼女は部屋の一角へと歩を進める。そこには茶色っぽい短髪の若い刑事が隣に座っている同僚らしき刑事と何やら話に花を咲かせている。
「どうせ、ガールズバーだろ」
「すげえ可愛くてスタイルいい子いっぱいいるみたいっすよ。松山パイセンよりも」
 茶色っぽい髪の方が言ったその時、彼の後頭部あたりからピシャリ、と軽く叩く音がした。
「いてっ」
 若い刑事が顔を上げると、松山がクリアファイルを片手に立っていた。その顔を見た彼は急に慌て出した。
「あ……ああ、松山パイセン」 「そこは、先輩、だろ」 松山はため息をついた。
「ちゃんと言葉を慎めよ、加山」
 加山と呼ばれた彼はしゅんとした様子で俯いた。
 加山––加山亮平は松山の後輩で、半年前に修行の体裁で県警にやってきた。松山は、なぜこんな奴があんな厳しい道を突破できたのか、不思議でたまらなかった。加山は、いわゆるウェイ系の気質で、同僚曰くたまに行きつけの飲み屋に連れて行ってくれるらしい。しかし、なぜか大体が県警本部の最寄り駅の前にあるガールズバーだった。行くたびに彼は、同僚そっちのけで周りに馴染みの女の子たちを侍らせ、ワイワイと酒を飲むというのだ。噂によると、警視庁だがどっかのお偉いさんのボンボンらしいだが、どれも確証はなかった。
「もうすぐ始まるぞ」 松山はそんな彼に背を向けると席に座った。

 時計は、すでに午前八時を回っていた。
「では、これより捜査会議を始めます」
 年老いたガマガエルのような低くてよくとおる声が会議室にこだました。ホワイトボードの前に立っているのは、松山たちが所属している捜査一課特殊班捜査三係の係長である吉野だ。吉野は、入ったばかりの頃の彼女に捜査のいろはを教えてくれた恩師だ。吉野は、独特の低い声で今回の事案の説明をしていた。それを簡潔にまとめると次のようになる。
 
 七月二十日午後二十時半頃、F市内にある森野総合研究所に保管されていた液体金属生命体愛称メルクリウスが逃走した。メルクリウスは警備員を飲み込むと、そのままカードキーを盗んで建物から逃げたという。
 話だけ聞くと、あり得ない話だし、本当なのかと疑ってしまう。しかも、この事案は、殺人でもなく窃盗でもない。しかし、実際に人が死んでいるので、捜査一課特殊班捜査係にお呼びがかかったわけだ。
 特殊犯捜査と言ったら、立てこもり事案のイメージが強いが、それは一番の花形と言われる1係のテリトリーだ。彼女たちが主に扱うのは、このような産業災害がらみのものだ。
 ああ、今回もきつそうだ。
 松山がそう思っていると、吉野が言った。
「現場には防犯カメラがあり、偶然にも一部始終を撮っていました」
 ホワイトボードの前にスクリーンが下がる。横にいる若い刑事がパソコンを操作すると、スクリーンに映像が投影された。
 まず映し出されたのは無人の研究室だ。部屋の中央にある机には、ガラスケースが置いてあり、その中には銀色の塊が入っている。
 右下にはタイムカウンターが表示されており、夜の二十時を示していた。画質は、鑑識が加工していてくれたのか、クリアだ。
「こちらにあるのがメルクリウスです」
 吉野は、ガラスケースを指示棒でさし示しながら言った。
「発生時点の状況としては、机の上にメルクリウスが入ったビーカーが置かれたままになっていて、鍵もかかっていなかったそうです」
 それを見た松山は、あることに気づいた。 「妙だな……」
 元々皺がよっていた眉間にさらに皺がよる。
「そんなに丁重に扱わなければいけないものなら、あのように置きっぱなしにしないはずだ」
「いや、もしかしてうっかり忘れていたかもしれないっすよ」
 そう小声で囁き返したのは加山だ。 「うん……」
 二人がそうやりとりしている間にも、タイムカウンターは着実に進んでいき、やがて発生時刻になった。すると、画面の端から青い服を着た男が入ってきた。しばらくすると、動画が止められ、警備員の顔がアップになった。今まで少し朧げになった目鼻立ちがはっきり。見た感じは十代後半から二十代前半。ここからではおぼろげにしか見えないが、うっすらとニキビ痕が見える。そこから、おそらく高校を卒業してまもないだろう、と松山は推測した。
「今回メルクリウスに飲み込まれた川口廉さんです」
 吉野は指示棒で警備員を指しながら続けた。
「川口さんはクローバー警備の社員でした。彼は森野総研から委託される形で施設の警備を担当しており、当日は夜間の警備をしていたようです」
 吉野がそこまで言った時、松山は手を挙げた。
「いいでしょうか?」
 吉野は仏像に似た優しげな顔に微笑みを浮かべる。
「はい、どうぞ」
 松山はゆっくりと立ち上がった。
「この日に警備にあたっていたのは、川口さんだけだったんですか?」
「いいえ、この日は川口さんの二年先輩である宮田さんもいました」
 松山はさらに尋ねる。 「いるならなぜ、川口さんだけだったんですか?」
 ははは、いい質問ですね、と言った後、吉野はこう続けた。
「宮田さんは、守衛室で事務作業をしていたそうです」
「警備員って事務作業あるんすかねえ」
 加山はぼそっとつぶやくと、松山の顔を見る。
「あると言ったらあるんだろうが……」 松山はパイプ椅子に腰を下ろした。
「口先ではなんとでも誤魔化せるからな」
 彼女の視線は再び再生された防犯カメラの映像に注がれていた。
 件の川口廉は、何かに気づいたのかメルクリウスが収めてあるガラスケースに近づいた後、部屋を出ようとした。しかし、次の瞬間、メルクリウスが廉の右足にくっついた。部屋のあちこちから悲鳴が上がる。加山に至っては、死人のような顔色になっていた。メルクリウスは、彼の両足を飲み込んだ後、下半身を飲み込み、ついにには全身を飲み込んでしまった。全てを飲み込んだメルクリウスは、形を変え、人の姿となった。松山は目が離せなかった。その姿は、グロテスクであり、美しくもあった。
 数分後。松山は署内のトイレの前にいた。男子トイレの中では、加山が嘔吐していた。先程見たメルクリウスが川口廉の体を飲み込む様子に気分が悪くなったらしい。彼は捜査会議が終わった後、すぐトイレに飛び込んだ。
「気分はよくなったか?」 松山は、ドア越しに加山に呼びかける。
「え、えぇ……」
 答える加山の声は弱々しかった。オエーという音が二、三回ほどした後、加山はトイレの中から出てきた。
「お待たせしてすみません」 加山の顔色はいくらかよくなっていた。
「まったく……あの程度の映像でひよってたら、刑事の仕事が務まらないぞ」
 松山が腕を組みながらため息をつくと、加山は唇を尖らせた。
「だってえ……すっげえ気持ち悪かったんすよお」
「あんなのはまだ可愛らしい方だぞ」 松山は加山にくるりと背を向けた。
「え……?」
「刑事をしてるとな、もっとエグいものに出会えるぞ」
「ふぇぇ……」 加山は顔面蒼白になって震えた。 「だからこそ」
 松山は後ろに振り向いた。 「若いうちから鍛えなければいけないんだ」
 彼女はそう言うと、階段を降りた。
「ほら、ぼさっとしてないで早くついてこい」 「はい」
 加山は松山の背中を追いかけた。

(続く)

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