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学歴戦争から脱落したわが子を愛せるか?

「失敗作な子どもは愛せない」というのは条件付き愛情の最たるもの。でもその根底は、わりと誰の心の中にもあるんじゃないかという話。


条件つき愛情は批判される

「中学受験に熱中するのはいいが、学歴戦争から脱落したわが子を愛せるか?」
という言葉がX(Twitter)で流れてきた。
要は、失敗しても次の道を示しつつ子どもを愛していく覚悟が必要だという趣旨のポストだったが「脱落したわが子を愛せるか?」という言葉の強さが反響を呼んでいた。
実際、受験に失敗し、子どもが予想外に「優秀ではない」学歴に納まったとき、子どもを愛せなくなる保護者がいるという話はよく聞く。私自身、さほど立派な大学を出ているわけではないので、周りには名門大学を滑ってきた子も多く「保護者の期待に応えられなかった」「保護者に見限られた」という子もけっこういた。就職後、保護者と(表面上は)和解をした子もいれば、保護者と疎遠になった子もいる。
学歴の「仕上がり」で子どもを愛する、愛さないを変える。これは条件付き愛情というもので、いいものではない。非難される。
実際自分のタイムラインにも、そういうスタンスを非難するポストが数多く流れてきた。

なぜ学歴で子どもが愛せなくなるのか

学歴の「仕上がり」が予想外に悪く、子どもを愛せなくなる保護者とは、どういう人なのだろう。絵に描いたような「子どもを私物化する保護者」を想像しがちかもしれないが、実際にはそうでもないのではないかと私は思っている。
「高学歴親という病」や「ルポ教育虐待」など、いくつかの書籍を読んだり、自分の周りを見た上での予想でしかないが、そういう保護者は、子どもがバカだから愛せなくなるのではない。子どもが必要な努力のできない怠惰なダメ人間だと思うから愛せなくなるんだと思っている。
やるべきことをやらなかった。だからちゃんとした学歴を手に入れられなかった。そう思っているのだろう。たとえるなら、思春期の子どもが自分でやると言っていた皿洗いをしてくれなかったときのような、そんな怒りのような感情を抱えているのではないだろうか。
端から見ると違うかもしれないが、少なくとも愛せなくなった親本人はそう思っているのではないかと想像している。
加えていうと、学歴に重きを置く人の中には、学力と道徳心をかなり同一視している人も少なくない。私の知り合いの中には、高卒はみんなロクデナシだと思いこんでいる人もいた。
とはいえ、別に学歴に重きをおいていない人でも、学力と道徳心を近しく扱う人は少なくない。偏差値の高い学校はみんなしっかりしているから校則ゆるいが、偏差値低い学校はみんなヤンチャだから校則が厳しいというような風潮を、みんな当たり前に受け入れている。
学歴が低いのは勉強という当たり前の努力をしなかったから。学歴が低い人間は人としても低俗という考えは、わりと当たり前のように社会に蔓延している。
だから、学歴の「仕上がり」が悪いと、子どもがまるでバケモノのような悪い人間に思えてきてしまい、愛せなくなってしまう保護者がいるのだろう。

子どものあり方が自分の予想を超えたら?

実は私は、学歴という意味ではないが、自分の子どもに「せいぜいこの範囲にいてほしい」という気持ちはよくわかる。そしてもしも子どもがその範囲を超えたときに、愛し続けられるかどうか分からないという不安もわかる。
たとえばだが、自分の子どもがとんでもなく酷く凶悪な犯罪を犯したら、それでも子どもを愛せるか?と聞かれたら、残念ながら私には正直ちょっと自信がない。
至らないところはあるかもしれないが、愛情を注いで育ててきたつもりだし、ものごとの善悪もそれなりに教えてきた。共に過ごしてきたあたたかい日々は全てウソで無駄だったのかと、子どもを憎んでしまうかもしれない。
子どものあり方が自分の予想範囲を超えたとき、保護者の中に湧き上がる気持ちは、そういうものなのではないかと想像している。
そう考えると、子どものあり方によって愛せなくなるというのは、わが子を特別に私物化している保護者でなくても、わりと誰にでも起こりうることなのではないかとも思えてくる。

子どもは案外思い通りにならない

私はフリーライターである。文字を書くのを仕事にするくらいだから、文章や本を読むのは好きである。好きというより日常だ。本や雑誌を手に取って読むのが生活の一部である。読まない、読むものがない暮らしは想像できない。
しかし私の娘はまったく本を読まない。小説はおろか、マンガさえ読まない。家の中には本が積んであり、子どもにも読めそうな本は、わざとリビングに並べてあるというのに読まない。読み聞かせや映像化作品を進めてみるなど、ある程度の読書誘導もしてみた。それでも娘は、本がそこにあるのに手に取らないし、仮に手に取ってもすぐに「読むのが面倒くさい」と放り出してしまう。
正直、最初は驚いた。だがそのうち、娘は「本を読まないタイプの人間」なのだと気がついた。本が好きじゃないのだ。不幸中の幸いで、少なくとも地元の公立小学校の授業やテストでは苦労しない程度には読解力もあるようだし、ならば無理して本を読ませる必要もないかと落ち着いた。要は本を読ませようという努力をあきらめたのだ。
もしこれがあきらめられなかったら、そのうち「なんでこんなにやってやってるのにダメなんだ!本を読まないなんて文化的じゃない!バカで低俗な子どもだ!」なんて思い詰めてしまっていたかもしれない。
もしも私が「本を読まないタイプの人間」という存在を知らない、あるいはそれを下に見ていたら。そしてそれが本を読む読まないではなく「勉強」であったなら。子どもが予想外に低学歴になって、子どもを愛せなくなってしまう保護者の姿は、自分のわりと近くにあるんだろうなと思うのだ。

バケモノは自分の中にもいる

学歴の「仕上がり」が悪かったからといって、子どもを愛せなくなるのは、保護者として失格である。それは紛れもない事実だ。保護者の姿として、それはあってはならないだろう。
だが、高みの批判をしていられるものでもない。これまでも述べてきたように、別に学歴に重きを置かない人でも当たり前のように学力と道徳心を近い位置においている。その上、子どもが保護者の予想とは異なるありようを示すことはめずらしくないし、子どものあり方が自分の予想範囲を超えたときに、子どもを愛し続けるというのは案外難しいからだ。
受験に失敗したからといって子どもを愛せなくなるのは最悪だ。だがそれは決して他人事ではなく、もしもボタンを一つ掛け違ったなら、自分にも起こりうることなのだと自戒しておきたいと思うのである。

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