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僕らは音楽という名の宗教に入信している

__息を呑む音が聞こえる。

会場は暗転し、緊張の糸が張り詰めた空気の中、誰もが待ち望んだ「その人」が姿を現す。一切の沈黙を壊すのは、"音"である。途端に沸き起こる歓声。

それは、その瞬間に始まった。

༝ ༝


音楽とは、宗教のようなものであると思う。

それはライブやコンサートに行くとよくわかる。それぞれの場所で同じ音楽を聴いていた私たちが一堂に会し、少し上の、ステージに立ったそのアーティストに、一人ひとりの2時間を捧げる。真っ暗な観客席と相対するように、チカチカと煌めくステージには非現実感が漂う。いつの間にかその光に魅せられた私たちは、現実を見失っている。

2時間。その間だけは誰もがスマホを手放し、少し上のステージを見つめ、音楽だけに集中している。いや、熱中、あるいは熱狂かもしれない。

自然と動きでノってしまう人、あまりに魅せられて硬直している人、感極まって涙を流す人、目の前の音楽に圧倒され考え事を始める人(これは私)、思い思いに共有した2時間を過ごしている。ただひとつ共通するのは、目の前の音楽を"聴いている"ということだ。

ライブやコンサートは、観客も含めて一つの作品であると感じる。少し上の舞台に立つ「その人」に魅せられた観客たちが、讃美の眼差しを寄せながらそこへ向かって手を振る。「その人」とは偶像なのであり、そこでは偶像の具現化を意味する。その2時間だけは、浮世から離れ常世へと片足を突っ込んでいる。

黒い天井に反射する煌めきは、まるでそれ自体が芸術であるかのように感じる。その瞬間を切り取って、額縁に入れて飾っておきたいような、そんな感覚がある。ここでは誰もが偶像崇拝の一員である。誰も「その人」に逆らうことはできない。


༝ ༝


そもそも、音楽は何故こうも私たちの人生に影響を与えるのだろうか。

それは、"記憶"が影響しているのではないだろうか。「音」「歌詞」「映像」の、3方向からの刺激によって、音楽は鮮明に私たちの記憶に残る(「映像」はない場合もあるが)。そして、他の関連記憶(どういう気持ちだったとかどういう季節感だったとか)と結び付いて、保存される。ふとした時に思い出すのはこの関連記憶によるものだと思う。つまり、気付かぬうちに音楽は我々の一部と化している。

情報が溢れ返り、強固な繋がりが薄れていく現代において、人生の支柱やアイデンティティは必要不可欠である。誰もが無意識にこれを探している。そうして、それが出来上がらないうちは、偶像を生み出しそれに縋る。そうしていたら、いつの間にかそれは自身を構成する一部となり、安心感を得られる。大きな何かに包まれているという感覚。それを信じて生きればいいという指針。

変わらないものがただ一つ、そこにあってくれれば良かった。それが内側にないのなら、外から取り入れて自分のものにすればいい。そうしたら、気付いたら、貴方も音楽という宗教に入信している。

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