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チェリストサバイバル日記

上野のスタジオで、そこはビルの5階か4階か、エレベーターなどはなく、細い階段を楽器を抱えながら登るのである。先生も同様に、楽器を抱えて登ってくる。一階は個人経営のレストランで、そこでスタジオの使用料を、支払うのだった。
レストランにはいつも、そこそこ人が入っていたようだ。自分がそこで食事をしたことは、一度か、二度、あるかないかであったけれど。
上野駅を降りて、高架下の車道を渡ると、おもちゃ屋と、隣には立ち食いそばの店があって、レッスンの後にはそこで先生と、蕎麦を食べるのであった。もちろん先生の奢りである。
このスタジオのある通りは、アメ横であったかもしれない。いまだにアメ横がどこか知らないので、確かではないけれど。

家屋の中に入っても地面は土で、土足のまま、外の台所に出ることができるその家は、黒っぽく、外からは少し傾いたりして、みえる。実際、子供たちが寝泊まりしていた2階の広間は傾いていたが、かなり古い家だった。庭では上半身裸の外国人と思わしき人が、何かしている。畑の作業かもしれないし、そこには畑は、なかったかもしれない。山羊もいるのだが、それはその家とはまた違うところで、妙に広い、土埃の舞っている広場であったが、夏の終わりの夜に、大人たちはそこで踊るのだった。いや、踊っていたのは別の場所かもしれない。鶏小屋というか、鶏厩舎の前は、細い道路を隔てて小さな林で、そこにテントをはり、子供達はそこで一晩を過ごすこともあった。
その辺りから電車の通っている駅へ行くには、車か、1日1本か2本、というようなバスしかなく、東京の家に帰るときは、気の良い兄さんのバイクに背乗りして、駅まで送ってもらうのだった。その駅は、山梨の韮崎駅で、それまでの畑と山しかないような景色からすると、駅が近づくにつれて煙を出す工場などがあって、都会であり、それは尋常ではないように思えた。
東京に帰ってもまだ夏、新秋津駅から、秋津駅までに歩かなければはらないどちらかといえば狭い通りは、まだまだ日差しが強かった。

畳の部屋で、宮本輝だったか、灰谷健次郎だったか、小説を読んでいたが、なんだかとても夕日を感じる小説で、それはその泊まっていた和室の景色と重なっている。
夏に山梨に行かなくなって、楽器の講習会に行っていた時である。長野のどこかのホテルであったが、ロビーには暖炉があった。もっとも夏だったので、使われていなかったが。良く外を散歩していたが、同じように講習会に参加していた他の子供、といっても中学生や、高校生だが、をみかけることはなかった。
隣の部屋のヴァイオリンの女の生徒さんは、ずっとサン=サーンスのCapriccioso
を練習していて、それは永遠に続くかとおもわれた。どのようにして、そのホテル行って、そして帰ったのかは、まるで覚えていない。長野駅から、バスに乗ったのかもしれない。

周囲を、黒い色の土の畑に囲まれている家に住んでいる女の子と、良く一緒に遊んでいた。田舎ではなく、東京と埼玉の県境で、その畑の向こうは、また家々が立ち並んでいる。その女の子と小学校から一緒に帰る途中に、100円玉を拾って、ドキドキしながら缶ジュースを買った自販機の後ろには、アパートがあって、ここにもまた双子の友達が住んでいて、良く遊びに行った。車道を経た反対側は、中学校のテニスコートと、その奥には林があり、空は青く、そのアパートの反対側は、何故か、海のようであった。


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