【詩】汽水域
舟着場があり
路はそこで尽きている
(水の匂いがする)
青い縞が見える
耳が聞こえにくい
水の中から息を吸うように
目線を上に向けると
巨大な樹木が
対岸に聳えている
空を覆いつくしている
(あれは何なの)
そこは沼地であり
河であり
汽水域でもあった
樹木からの絶え間ない滴りが
数知れない波紋をつくり
ハープのような音を奏でていた
(行ってみない?)
(どうやって?)
(あそこに舟がある)
周囲は薄明に包まれ
光源は斜め上方にある
(やめたほうがいい)
(側まで行ってみたい)
櫂の音
水面に拡がる光と影
近づくにつれ
樹木はますます大きくなる
距離感が失われている
(大きすぎて見えない)
息の音
風の音
光線が崩れる音がした
青い色や赤い色が水面を漂った
ポタ ポタ ポタ
滴りは果てしもなくつづく
ポタ ポタ ポタ
水面がさざめくと聞こえるハープの音
ポロン ポロン
樹木は無数の枝葉を拡げ
空を隠している
あたりは水の匂いにみちている
仄かな光源が斜め上方にある
ポタ ポタ ポタ
それは遠い過去からの音
あまりにも広大で
複雑な層をなす枝葉は
膨大な量の雨を溜めこむ
雨水が地上に落ちるまでに
長い年月がかかる
(星の光みたいに)
千年前の音に
耳を澄ます
彼らも聞いていただろうか
この雨の音を
野望だけを抱いた
坂東武者たちは
この平原のどこかで兵を挙げ
武運を祈ったに違いない
(何を考えているの)
(さむらいのことを)
蝶が現れた
青い翅の蝶
蝶は招くように飛ぶ
舟は核心部に近づいている
水の匂いが濃くなる
枝葉が絡み合い
空に光はない
光源はどこにもなく
光は水面にただよっている
ポロン ポロン
またハープの音が聞こえる
ポロン ポロン タリラン
(わからない)
(何が)
(忘れてしまう)
頭に霞がかかっている
(何か聞こえる)
(人の声みたいな)
念仏みたいな
マントラみたいな
《僕らは今朝方、家を出てきて
特にわけもなく
広大な水辺をドライブした
夜明け前の鈍い光の中を走っていると
霞が濃くなったので
車を路上に止め、歩いた
枯れ葉がガサゴソと音をたてた
もうとっくに夜は開けているはずなのに
とても薄暗い
歩きながら夢を見ていたらしい
風がひんやりとし
青い縞が見えた
路はそこで尽きていた》
舟はゆっくりと進んだ
青い蝶が舞う
あちらこちらの枝葉の影から
マントラが聞こえる
櫂を漕ぐ
ポタ ポタ ポタ
波紋ができる
彼女の眼が
水色に染まっている
そっと覗き込む
眼が息をしている
水の音がする
ポタ ポタ ポタ
眼の中にも水がある
幾重にも波紋が拡がる
広大な汽水域
やがて青い蝶は
樹木の巨大なうろの中に消えていく
遠い昔から雨水が落ちてくる
ポタ ポタ ポタ
樹木の中心に近づいている
大きなうろが拡がっている
僕は彼女の眼の中にいる
マントラが聞こえている
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