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『最後の夏の逃避行』

 夏休みも終わりかけた、8月のある日のこと。
 列車に揺られ家路を行く、学校帰りの高校生が、二人。

「しゅーやー」
少女が向かいの席の少年に声をかけた。しかしその少年、柊也はイヤホンをしたまま、英単語帳に合わせた目線を上げようとしない。
「しゅーやってばー」
もう一度少女が名前を呼ぶ。だが、少年は応えない。しびれを切らしたのか、少女は英単語帳を手から奪い取った。
「わっ!?……びっくりしたー、なんだよ夏菜」
「なんだよ、じゃないよー。ずっと呼んでたんだよ」
夏菜と呼ばれた少女は、柊也の言葉にふくれたように返事をした。
「ごめんごめん、ちょっとのめり込んじゃった。というか、夏菜もこういう時間に単語とかやらないと、もったいないぞ」
「私は夏休みに夏休みらしいことを全然しない方がもったいないと思うんだけどなー」
「昔っから夏大好きだもんな……」
 夏菜は7月生まれ、好きな季節は夏。一方の柊也は1月生まれ、好きな季節は冬。まったくの正反対、しかしいつも一緒に帰る仲良しの二人は、一週間の補習を終えた受験生だ。

「柊也は休み中ずーっと勉強で、つまんなくなかったの?」
「んー、俺は頑張らないと行きたい大学行けないしな……つまらないとか、そういう気持ちは考える暇もなかったよ。そもそも暑いのは得意じゃないから、家にいるほうが気楽だし」
「やっぱりすごいなぁ。私はどうしても、遊びたいとか海行きたいとか思っちゃって」
「まあ、そういうのが夏菜らしいというか……」
「ちょっとそれどういうことー?」
皮肉のようにも聞こえて実はそんなことはない柊也の言葉に、夏菜もちょっと笑いを含めて返した。

「夏休みもあと少しかぁ。結局勉強だけで終わっちゃいそう」
「これも受験生の宿命だぞ。頑張らなければ合格はない!」
「それはわかってるんだけどー……せっかく一週間補習頑張ったし、予備校にもたくさん行ったし、ちょっと休んでもよくない?」
「そうはいっても……」
「だって、1年生の時も2年生の時も、なんにもできなかったじゃない。最後くらい夏を楽しんでもいいでしょ?あーあ、青春したいなー」
はぁ、と柊也がため息をついた。子供みたいな態度を取る夏菜にあきれたのか、と思いきや、
「しょうがないなー……」
「え?」
少しニヤリとして、こう続けた。

「寄り道しよ」


 よっ、という掛け声とともに柊也がホームに降り立つ。導かれるままに夏菜も列車から降りた。
「最寄り駅、通り過ぎちゃったけど……」
「いいのいいの、そんなに遠くないし。さすがに親も怒らないでしょ」
そうして、数分前まで二人が乗っていた列車が去っていくと、その影に隠れていた景色が、目の前に現れた。
「わぁ……!」
夏菜が感嘆の声を上げたそれは、線路の先に広がる海。沈みゆく太陽の、オレンジ色の光が水面に反射して、キラキラと輝いている。
「お望み通り……ではないかもしれないけど。俺のいっちばんお気に入りの景色」
 そこには花火はないし、祭りが開かれているわけでもない。だが、いかにも夏を思わせるこの風景は、夏菜を感動に導くには十分すぎるほどだった。
「きれい……こんな場所が近くにあったなんて」
岸に打ち付ける波の音と、秋の気配を感じさせるそよ風が、夏菜の気分をいっそう高めた。

「柊也は、どうしてここが好きなの?」
「どうして、かー……。ひとつ言うなら、何もないから、かな」
「何もないから?」
不思議に思って繰り返す。
「特別なものはないけど、ここに来ればなんとなく心がすっとするんだ。波の音をずっと聞いているだけでも、ね」
柊也は遠くを見ているようだった。夏菜も海の方へ目を向ける。
「夏って、もっと賑やかな季節だって思ってた」
「賑やか?」
今度は柊也が首をかしげた。
「海に行っても山に行っても、どこに遊びに行っても人がいっぱいいるから、夏って賑やかだなぁって。それもそれで楽しいけど」
「うん」
「そっか、こういう静かな夏もあるんだって」
「気に入った?」
「もちろん!」

「たしかに俺たち、この3年間特別なことは何もできなかったけど……こうやって誰かと過ごせているだけでも、俺はすごく楽しかったんだ」
「うん。行事がなくて物足りないなって思ったりもしたけど、友達といっぱい話せて、普通に学校行けて、それをつまらないだなんて思わなかった」
「でしょ?」
夏菜が穏やかに笑って、柊也もそれに安心したように笑顔になる。
「……ありがとう柊也。おかげで少しつっかえが取れた気がするよ」
「それはなにより」

「よーし、また勉強頑張るぞ!」
「お、その気になった?」
「だって、大学に入ったら今度こそ青春するんだもん!そのために!」
「もう、夏菜らしいな……ははは」
「それで、柊也」
「ん?」
夏菜は一度言葉を切って、柊也のほうを振り向いた。
「また来年の夏、ここに来よう!ね!」

夕日に照らされたその笑顔は、何よりもまぶしかった。


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