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である社会に生きる東洋人へ

こんばんわ、NOTE週刊日記第一号はこのであるに囚われている日本人をはじめとする東洋人に向けて私なりのメッセージ兼日記とさせていただきます。※個人の感想なので軽く読んでいってください!
 まずは「である」社会とはどういうことか。それは身分社会を指します。身分社会は様々な区別が存在します。年齢、先輩と後輩などなどです。
そこで、最も特徴的なのは「年功序列」でしょうか。これは雇用の面で最も表れているシステムです。ではそんな「である」社会の反対とはなにか。それは「する」社会です。混同しがちな両者ですが、「する」社会とは単に資本主義を表しているわけではありません。当然社会主義的な考えはこれに該当しませんが、資本主義がすべて該当するわけではないということです。では、「する」社会とは何か。次の具体例を挙げて説明しましょう。
 ここでは「日本の法律」を手に取って説明していきます。難しいことではありません。では初めて行きましょう。日本では国民が国民が皆平等に持つ(持ち得る)権利として「選挙権」があります。選挙権とは選挙に参加できる権利で、成人が18歳からとなったため、18歳以上の国民はみんな持っているものです。では選挙権で何が説明できるのか。それは「である」と「する」の本質的な二者の相違になります。ではなにか。「である」ことは、有権者つまり選挙権を持っていることを指します。一方で「する」ことは、有権者がその選挙権を行使することを言います。なにが違うかお分かりですね。そう、行使するか否かにあるということです。
 では、ここでみなさんはどちらがいいと思いますか。しかし現時点では「である」社会のネガティブな要素ばかりを言っていたので、メリットも述べます。それは安定するということです。「である」で構成される社会は、立場、権威が安定しやすく、変動しづらい。「する」社会は変動性があり、常に様々なものが変動していきます。その変化についていかなければいけません。それに比べると安定していて暮らしやすいと考えられます。
 私の答えは「する」社会です。しかしその根拠は少し特殊かもしれません。そしてその根拠は、「する」社会が選択の可能性を孕むからです。それはどういうことなのか。「である」社会では安定するゆえに選択はできません。そこで一時的に「する」社会へと移行することで、社会全体が様々な選択を個人に委ねる状態にすることができます。社会が選択を、多様性の上での能力主義を受け入れることで、そこでもう一度「である」社会に立ち戻ったとしても、そこで存在する「である」の法則、ルールは、現在の身分主義とは違うものとなるでしょう。
 しかしここで視点を変えて見てみましょう。「である」社会をひとつの東洋独特の文化だと考えるのです。
すると、文化はその国の個性と置き換えることが出来てまた、文化が消失することは国としてのアイデンティティを失ったことと同義なのです。では、文化の視点から今度は「である」社会を深めていきましょう。
 「である」社会、年功序列制の社会では儒教の教えが大事にされていると考えられます。それは、「五倫」と呼ばれ、「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」の5つのことを言います。これらを見ていくと、初めから4つは縦の繋がり、最後の朋友の信のみが横の繋がりを意味します。要するに儒教の教えに忠実であると、縦の関係をより多く気にするということです。
そんな縦の関係で、父子の親、長幼の序などに見られるのは、年上を敬うという傾向です。そこに年齢の違いがあるなら、年下は年上に敬意を示す(例えば敬語を使うや、順番を先に譲るなど)をする必要があるということです。では、この教えは日本の文化においてどのような影響を及ぼしているのでしょうか。
 日本の文化では、年功序列において年上を敬うという傾向があります。それは高齢者に対する紳士的な対応に現れているのではないでしょうか。街で高齢者を見かけると、助けようとすることが美徳とされていますよね。ですが日本人の特徴として相手に気を使うということも同時に美徳とされています。ですが両者は時に衝突することがあります。「助けようと思ったけど、助けてたら迷惑になるかな、目立ちたくないな」この状況です。
助けるべきというと、周りへの配慮という2つの美徳のせめぎ合いが起きてますよね。しかしそれが悪いのではなく、日本人らしい他人を気遣う心の現れというものに繋がって行くのです。海外での優しさにおいても、人を助けるという要素は存在しますが、それは万人に平等であり、年齢や立場による差異はないと思われます。そこにも「である」と「する」が隠れています。「である」がある日本では、年上年下相手がどんな人間かを判断するという習慣が染み付いています。この人はどういう人なのかそれを考え、それに従って助けるか否かを判断しています。しかし西洋では困ってる人だと思ったら、自分にとって大変なことを相手がしてたら、助けを求めたら助けるのです。それは無差別的なものでごく自然なことなのです。
 ここまで文化としての社会の性質として「である」と「する」を捉えていきましたが、それは一種で存在すべき個性のひとつとしての性質を持ち合わせているのです。
つまり、合理的か否かまた都合がいいか悪いかの話だけでは収まらないということがわかりました。そこで、どうして私は「する」社会がいいと考えたのかの原点に戻ります。
 私が「する」社会を選んだのは、多くの選択と決断を生むからだと言いました。つまり一旦「する」社会が形成されることで、選択ができるようになるということが言えます。それは「である」と「する」の部分的な選択を導くと言えます。つまり、部分的には適応を重ねることで両者のメリットを上手く選択して、取っていくビュッフェのような形にできるからです。漠然としていてわかりづらいのですが、要するに日本がどう選択するべきなのか。
それは「である」という文化を抱えたまま、社会、労働の分野においては「する」という要素を全面に取り入れて、プライベートとパブリックの区別を社会全体で推進すべきだと考えられます。
 まとめると、「である」社会と「する」社会はどちらが優れているのか。それは「である」社会は日常の面において優れており、「する」社会は外面的な部分において優れていると考えられます。それは社会全体の正しい選択として、「する」社会のもとで合理的なシステムを形成し、経済的、政治的な外骨格をつくり、その中での様々な細かい事案での選択肢として「である」という考え方が存在するのが理想的であり、最も現実的に必要とされているということです。私たちはこれからたくさんの選択をしなければならず、答えが曖昧で何が正解かは分かりませんが、少なくとも合理的に生きる力があれば、それを自分にとって後悔のない選択が出来ると思います。まずは綺麗事から入り、そこから自分を体系化させることが必要だと思います。そして自分らしい生き方をしましょう!
参考文献:「であることとすること」丸谷真男著(現代文Bの教科書にある作品です)


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