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軽く鬱がきたので書きます(主にいじめ問題について)

最近、よく「生死」について考えています。それは哲学的な話題に聞こえるかもしれません。しかし身近な話題であるがため、考えやすい話題だとは思います。あらゆる疑問は次から次へ湧くように出てきますが、ここで先ほど言った身近であるということを表すため、一つ質問をしたいと思います。もし、あなたがいつ死ぬか分かったときに、何をしますか?この正解は人それぞれですが、この自分の死期を想像することがこの生死の世界を考えることにおいて最も重要で、身近な理由です。ここではわたしなりの正解を述べたいと思います。私は死ぬとわかったなら、ある金すべてを使って好きなアニメや漫画に貢ぎたいと思ってます。正直、ほかの使い方も当然ありますが、これが私の正解です。皆さんはどうでしたか?ここでひとつ、さきほど正解はないと言いましたが、質問の内容からみなさんがどんな回答をしても共通するものがあります。それは、当然ここでやりたいことはその人が一生を通して本当にやりたいことである、ということです。つまり、人は欲望と理性が混在する生き物であり、死ぬことへの特別な考えかたが存在するということが分かると思います。ここでもう一つ私が考えていること、それは学校のいじめ問題です。特別SNSを用いた件です。正直、私はこのいじめの学校側の対応は、間違っていると断言します。いじめの本質を理解していない行動だと思っています。では、どうするべきなのか?一つは極端な話ですが、SNSがいじめの原因になるならば、それを使わせなければいいと思います。学校によっては、登校時から下校時までのスマホの使用をさせない対策をしている所もありますが、ではなぜSNSの禁止をしないのでしょう?こういうことから学校の対策が曖昧で雑であることが読み取れます。いじめを無くしたいのにいじめを当事者たちに考えさせるのは、おかしいと思います。なぜなら、当事者の視点からすれば、考えろと言われてもどうしようもない場合もあります。つまり、これは学校側の過信に過ぎないのです。ならば、学校からそういう自由に制限を設けるべきだと思っています。しかし、これは極端な話が故、一つ反論があります。それは他人も巻き込まれてしまうということです。所詮、問題を起こしている当事者はほかの誰かがどうなろうが、関係なしに行います。よって禁止をしたとしても陰でこそこそするだけで何も解決になりません。しかし、現状はこれも一つの手段だと思います。次に提案したいのは、被害者の対応です。一つここで断っておくのですが、これは決して被害者を責めているわけではありませんし、いじめを擁護する意図もありません。それを踏まえてここからを読んでください。さきほども言ったようにいじめは加害者を責め、被害者を擁護する考えが多いです特に日本人には。しかしそれは正解ではありません。当然被害者の擁護も、加害者に対しての指導も重要だとは思いますが、それはこれからしたほうがいいことの二の次だと思います。それは、被害者が自分で塞ぎこまないように、犯罪行為なら尚更、警察に直に相談するべきです。被害者のことを考えて、それは不可能という人がもしいるならばひとつ言わせてください。それはただの「怠惰」です。換言すると、被害者は問題解決を放棄していると言えます。それはなぜか?その答えはいじめの「本質」にあります。みなさんはいじめは説明してくださいと言われたときどう説明しますか?きっと、多くの人は「ある人が個人、または集団から不快に思うことや、暴力、嫌がらせを受けること」と答えると思います。多少違ってもきっと被害者が執拗に嫌がらせを受けるというところは変わらないと思います。ここで質問しますが、いったい嫌がらせはなにによって定義されるのでしょう?ここで問いたいのは、嫌がらせ加害者、被害者どちらが決めるものか、ということです。答えは一つ、被害者です。第一に、いじめはこれと同じ被害者のライン、いわば線引きです。これが表すのは、いじめの本質に立ち返ったとき、いじめのスタートライン(いじめと判定されるはじめ)は、被害者で、いじめという存在を作っているのは被害者なのです。ここから何が言いたいのか、それは、いじめという状況を創ったのが被害者なら、被害者自らが解決へ行動するのが正当ではないでしょうか?はじめにいじめだと決めつけその枠組みを作っているのは被害者自身にも関わらず、その被害者が怠惰であるなら解決のしようにも不可能なのです。人に頼ることは必要です。しかし、いじめを受けて精神的になどの理由で自ら行動しないのは怠惰、問題解決を放棄していることと何も変わりありません。長々と語ってきましたが、ここでその対策として、加害者に対してのケアが必要です。同時に被害者を「擁護」ではなく、「支援」することが大事です。この話で伝えたいのは、被害者にとっていじめがどれだけ辛かったとしても、加害者も同時にケアをしなければ、いじめはなくなりません。物事には二面性があるといいますが、いじめだけが例外ではないのです。すなわち、いじめは被害者も加害者にも心の傷が存在するのです。だからこそ、いじめには双方のケアが必要だと私は考えています。その点が学校のいじめの指導で欠けていると思います。話を少し変わりますが、SNSのいじめは学校の管轄外だと思っています。ここで言うことは、SNSで起きるいじめは当然、それが無ければ起きません。つまり、被害者にも非があると言えるのです。ならば、いじめが嫌だというのなら、SNSそのものに関わらないのが正解だと思っています。正直、私はいじめなんて馬鹿馬鹿しいと思っています。理由は、先ほどのSNSの例のように、自らがリスクを背負って、いじめを受けたなんて、それは被害者の自己責任に感じられますよね。本当にその通りで、いつも加害者が悪く扱われがちですが、それも一視点であって、無論被害者にも非が無いとは言い切れません。日本の悪いところとして、加害者を絶対悪として捉えることがあります。これが非常に厄介で、集団的な存在を重んじる日本は、マイノリティが存在しずらい社会で、こういう意見は集団の中で「間違い」として扱われるのですが、これが非常にマイノリティに属する私にとっては気に障るのです。日本のいいところと捉えるひとが多いのですが、決していい事ばかりではないのです。つまり、様々なものやことには必ず、二面性を持つのです。これは何があっても忘れてはいけない大前提です。まとめると、私は学校で起きるいじめを本気で問題視していて、これを解決できるであろう方法を日々模索していますが、いまのところは、いじめ0の社会は不可能でしかありません。解決を怠ける理由にはなりませんが、これも現実です。いじめの話はメインではなかったのですが、メインみたいになりました。いじめを許せない諸君これを読んで少しでも考えが変わることを願います。


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