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写真と映像

どうも自分は写真や映像がまだ苦手である。

自分の撮った写真や映像は、自分が撮るのではなくて頭の中で想定され得る写真や映像によって引っ張られ、そしてそれによって撮られているような気がするのである。

写真や映像を撮るときは自分がなんかしらを感じた時に撮ることが多いのであるが、その感情を味わいながら撮影する余裕が自分にはまだないように思う。その感情を表そうと試みる余裕もないように思える。

それは撮影の瞬間に様々な(雑?)念が絡み合ってしまうことが大きい。まさにその瞬間を収めなければ!という焦りの感情なり、周りの人に迷惑をかけたくないし早くその場を退きたい、と思うことなり。それは自分自身が写真・映像に向かい合った経験が少ないからとも言えるのかもしれない。「向かい合う」は考えすぎ?遊び足りていないという具合か。

更に自分を虚しくさせる瞬間は、撮り終えてその写真や映像を見た時である。自分になんらか感情を引き起こしたであろうその景色が、あまりに簡単にそこに写っていて戸惑うのである。あまりにそのままで、そのまますぎるが故にとても平坦で、なんだか間抜けなような感じがしてしまう。

単純に写真に残す、というのであれば全く問題ないはずのだ。その場の記念に、という写真は自分も数多くとってきた。

ただ、なんだか最近そういう写真・映像を撮ることができなくなってきてしまったのである。その場でのその感情や、その場にいる人たち、目の前にある食べ物、カメラを向けてシャッターを押しているその瞬間に全て無に帰してしまうような気がする。それを感じ取りたい感じ取っていたいと思うがあまり、カメラを出すのも憚られてしまう。

インスタグラムにはたくさんの写真と映像がある。この間、ふとフィードを眺めていると一際目をひいた作品があった。それはNelson Makamoという南アフリカのアーティストの絵画。ちょうど写真とか映像に対して悩んでいたときで、それを見た時、こういうことだ!と思った。

その作品を目の前にした時、瞬時にそこに奥行きが感じられるようなもの。その作品を見たときに、自分の心の中に何か物語が立ち上がらせるようなもの。その物語をすぐに言葉に表すことができなくても、それは見た人の心の中に確実に立ち上がっていて、それだけは本物と言えるような。そういうものはどこか自分の心を震わせる。

もちろん、写真や映像が全くそれができないというわけでは全くない。今までにそれで同じような感覚になった経験はあった。それに写真・映像が得意とする景色をアクチュアルに伝える要素もしっかり考えていかなければならないと思う。本当に。

自分の研究の最終アウトプットはこういうものでありたいと思う。人の日常をできるだけ丁重に扱って、そこでの物語が受け取る人の中でまたなんらかの物語としてリアルに感じられるようなもの。手段も対象も絶賛模索中ではあるけれど...。



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