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武装解除!

「自分の境界をちゃんと理解できてる?それを超えられたらちゃんとno、言える?」

とある友人の言葉。彼は「自分が何をしたいのか、それがわかればだいたい人生はイージーだ」と言っていた。

その通りだと思う。自分が苦しくなるのは、大体自分が無の空間の中でもがいているような時だけだ。

「自分は、結婚して家族ができて安定した道を歩むことができれば幸せになれる、そういう幻想に囚われないように日々戦ってる」

彼はそんなことも言っていた。

確かに、自分を含めそれを何かしら求めてしまう人たちにとって、そこはまだ未知の世界であって、そこに幸せがある保証はない。

彼は、自分が人生の中で出会ってきた数多くの人たちの中で、一番精神的に自立しているように見える。「パートナーに振られても自分の目標にはなんら影響はないから全く動じてないよ」、と語る彼の姿は、根無草なんて自分を呼称して、自分の価値づけにもがいているような自分にとって完璧とも言えるような状態であった。

ただ、なんだか完璧すぎて同時に寂しさを感じてしまう自分もいた。

そんなに完璧でないといけないのだろうか?

人間は孤独に生まれ落ちた存在だと思う。他人の気持ちを100%理解することは永遠にできないし、逆に誰かが自分の気持ちを100%理解することもできない。

どうしようもなく苦しい感情を抱えたときに、それをどうしても誰かに知って欲しいときに、それでもやっぱ伝え切れることはないんだなあって、その絶対的な壁を前に孤独を再確認する。

そんな孤独が故に、何かの一部になりたいという欲求が自分たちの奥底にはいつも潜んでいるのだと思う。何か大きなものの一部になるような感覚が欲しくて、そこに安心したいのだ。どうしてもすきな人と一緒にいるときに、どうしようもなく噛みたくなってしまうような癖があるとしたら、不可能とわかっているけれど、それでも一緒になりたいという欲求の発露なんではないだろうかと思う。

南アフリカで話されているNguniという言葉で、Ubuntu(ウブントゥ)という言葉がある。意味は "I am because you are" 「あなたのおかげで、私であれる」と言ったところだろうか。

アフリカには、他者と自己との関係を重んずる思想がある。他者との関係があって、初めて自分であれるのだ。全てがimcomplete (不完全)であることを受け止め、自分の体を他者へと開き、conviviality(自分らしさを保ちながら他者と宴をする) へと誘っていく。みんなで互いをさすりあいながら、ワイワイと生きていく。

思えば自分が滞在したモザンビークでも、別れ際にはいつも "estamos juntos (エスターモス ジュントス)"「いつでも一緒やな」と言い合っていた。セネガルで話されているウォロフ語でも "nio far(ニョファル)"「いつでも一緒や」という言葉をよく使うようである。セネガル人の友人とは、いつも別れ際にこれを言い合っている。

もちろん自分の境界を自分で理解することはとても大事である。なかなかnoと言えない日本人、のようなものは自分の身体のリアクションとしていつも共存していて、なかなかに苦しんでいる。オランダのダイレクトに物を言う文脈に浸りながら、浮き彫りになってくる自分の「引き受けてしまう」癖をぼちぼちとかしているところである。

そうやって自分の境界を大事にしてあげられるように頑張りながら、同時にそれは他者との関係性の中であれるように。他者と関わる上でオートマチックに武装してしまう、カッチコチに固まりながら引き受けてしまう癖を少しずつリラックスさせていきながら、不完全の自分をみんなと関わり合いながらありがたーく受け止められるように。絶対分かり合えないよな!という気持ちぐらいはせめて一緒に分かち合いながら生きていけますよーに。

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