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「私には何もない」「喪失が作品を生み出す」

私も傷口に塩を塗ってあがこうとするタイプだよ、鈴愛ちゃん。

念のため、時系列を述べておくと、昨晩、リアルタイムで「SONGS」を見ました。そして、ついさっき、昨日放送された「半分、青い」を録画で見ました。

「SONGS」で宇多田ヒカルが語った喪失と創作の関係は、すごく共感できた。ファン(過激派)としては、宇多田ヒカルと自分を同一視なんてとてもできない話ではあるのだけど、彼女の言葉をよりどころにすることで、ようやく自分自身や自分の創作の型を説明できたという感じ。

喪失、孤独、悲しみ。そういうものって、自分一人でじっくり向き合うしかない対象なんだと思う。そしてそれは、自分の中でしっかり思考を整理していく時間を取ることで、言語化も可能になる。私は、そうやって時間をかけて自分の思考を整理しないと、作品が生み出せない。
創作の話はさておき、私はそういうタイプなので、頭に浮かんだことを瞬時に言語化するのが、あまり得意ではない(仕事柄やらざるを得ないので、それなりにはできる)。
日々のことに忙殺されている時は、特に自分の気持ちが言語化できなくなるので、もやもやが溜まっていってしまう。何が悩みなのかもわからないまま、ただ憂鬱だけが蓄積されて、イライラして、思うような行動がとれなくなる。

そんなときに、敢えて傷口に塩を塗ることがある。
「これをやったら/読んだら/見たら」「私は絶対泣く/傷つく」
言ってしまえば、物理的な傷を与えないタイプの自傷行為である。でも、心は抉られる。あっ、書いてて思った。これただのメンヘラかもしれない。まさにこうやって、思考を整理していかないと、自分の姿に気づけないのだ。

自分のことをおろそかにしてしまうくらい、余裕がないときは。忙しいときは。敢えて心を抉らないと、気づけないのだ。自分自身に。

今日がまさにそれだった。時々突然来る波みたいなものだ。

ちょっと仕事や生き方のことで行き詰まっていた。自分の無知に、頼りなさに、傲慢に、こっそり落ち込んでいた。あぁ、自分なんもねぇなぁ、どうすんだよって。

それで、Twitterでいくつか感想が流れてきていた昨日の「半分、青い」を見たのだ(でも実は、普段は時間の都合でほとんど見ていない。公式サイトとTwitterで何となくあらすじだけ把握していただけ。ただ、昨日のは見た方がいいなと思って昼の放送を録画していた)

そしてやっぱり心が抉られたのである。

そうやって泣かないと、私は自分の中の悲しみを吐き出せない。いつからか、自分の思考だけで、自分のために涙を流せなくなってしまった。誰かへの共感や憤りなど、誰かを間に入れないと、泣けない。人一倍感受性が強いくせに、自分のためにだけは、涙が出ない。
今日は、鈴愛ちゃんを通さないと、きちんと泣けなかった。

とても不健康だと思う。

でも、今はそうするしか術がないのだから仕方がない。溜め込んで、どうにもならなくなるまで追い詰めてしまうことだけは、避けたかったから。今は憂鬱にがんじがらめにされている場合じゃない。やるべきことがあることは、わかっているのだ。だから、これは一種の自己防衛だ。

傷口に塩を塗りたくって、泣いて喚いて、当たり散らして、膿を出さないと、前に進めない。

分からない人には全く分からない、不器用すぎる荒療治なのだと思う。
でも、昨日の放送で、この方法に泣いている人が私以外にもいたのは、ちょっと心強かった。

そう、吹っ切れたら、その先に進めるはずだ。
私も、ひとまず落ち着いた(だからこれを書けている)。

再び「SONGS」の話に戻る。
「なにがしあわせかわからないです」という『銀河鉄道の夜』の言葉を宇多田ヒカルが引用していた。今の悲しみを、今評価しても仕方がない。

I don't care about anything
ちょっと遅刻した朝もここから
がんばろうよ
何度でも期待するの
バカみたいなんかじゃない
だからKeep Tryin'
(宇多田ヒカル「Keep Trying」)

この先も、失敗したり、挫折したりの繰り返しなのだろう。
でも、七転八倒の先はわからない。
いいことだってあるかもしれない。
だから、こうして傷ついて、膿を出して、また戦いに挑むのだ。

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