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デモと中傷は紙一重:自分の言葉に敏感になること

夕方、ネットである方の訃報とそれにまつわるニュースを見てから、沈黙すべきか、発言すべきか、考えていた。
Twitterデモと誹謗中傷の違いは何だろうかと考えていた。
わたしは、世の中がどんなに乱れても、言葉は人間を救うと信じているので、やはり発言しておこうと思う。
誹謗中傷は、人を傷つける行為であり、言葉の暴力だ。意図的にやっている人間は、人を人と思っていないのだろう。
今、ここで問題にするのは、そういう人間ではなく、何気なく誹謗中傷に加担してしまっている人たちである。
人を人と思っていない人には、茨木のり子の詩を引用することにして、本題に入りたい。

人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
(茨木のり子「汲む―Y・Yに―」『おんなのことば』(童話屋))


連休明けくらいから、SNSでは、特にTwitterでは政治についての発言が増えていた。ここ数日で新たな火種が増えているし、どうなるのだろうとチェックし続けている。この国の司法の問題。検察庁法改正法案を取り巻くあれこれである。
その詳細はここで述べないけれど、このことで、自分たちが言葉を発することの価値を強く感じた人が多かったのだろうと思う。
世事のおかしな点、間違っている点は発言しても良いのだ、と。

言葉にすれば、私たちの権利を守ることができる。

一方で、「自粛警察」「感染者叩き」をはじめ、何か・誰かを強く否定する行動もまた、言葉によるものだ。
おそらくその人たちの中には、おかしい、間違っている、と感じたことを率直に発言しているつもりの人も多いのだろう。
今日見た訃報に関係するニュースはどこまでが本当か、まだわからないけれど、

言葉にすれば、誰かの心身を壊し、命を奪ってしまうかもしれないのに。


Twitterデモと誹謗中傷の違いは何だろうか。
あれこれ考える中で、言葉が向かう先、対象の違い(デモは法案の是非という実体のないもの、中傷は現実の人物に向かう)なのでは?と思ったが、これはちょっと違うなと思っている。
情報の真偽については今は置いておくとしても、例えば「あなたは間違っている」のような言葉は、デモでも中傷でも使う可能性がある。
全ての人ではないにしても、SNSを見ていると「あなたは間違っている!」と信じた人が、その「あなた」に向けて発言しているのを、よく見かける。デモでも誹謗中傷でも、自分の考えが正しいと信じている熱量みたいなもの(攻撃性と言えるのかもしれない)は、どちらも似たようなものだと感じることが多い。冷静じゃない人が多いというか。

Twitterデモと誹謗中傷は、一歩間違えると紙一重である。
その違いはどこにあるのだろうか。
それは、言葉の使い方、議論の仕方ではないだろうか。
政治に対して意見を述べることは良いことだ。
しかし、意見=感情ではない。
ただ相手を否定することではない。
例の法案への抗議であれば、法案のなにが問題なのか(内閣に人事権があること)、どうして問題なのか(三権分立を脅かすから)、そこまで言うことが必要なのだ。本来は。
でも、誰もが詳しく言えるわけではない。抗議しますというハッシュタグだけの発言だって、意思を示すために必要だと思う。
ハッシュタグだけではなくて、何か一言添えたいときに、どう言うかが大切なのではないだろうか。
相手そのものを否定する言葉(「消えろ」「死ね」など)は、やはり誹謗中傷だと思う。それは意見とは言えない。感情だ。

「意見」はあくまでも論理的なものであり、相手の人格を否定してはいけない、というのがアメリカのディスカッションの暗黙のルールだと聞いたことがある(たしか横山雅彦の『高校生のための論理思考トレーニング 』だったと思う)。たぶん、日本人が苦手なのはそこだと思う。
自分の意見と感情を区別することをもっと意識的に行わなければならないのではないだろうか。

わたしたちは、自分が使う言葉に鈍感すぎるのだ。

SNSは特にそういう傾向が強いと思う。そもそもが「Tweet(つぶやき)」なのだから。思ったままにつぶやける手軽さが、TwitterやInstagramの美点だったはずだ。

とはいえ、SNSを使う目的はもはや人それぞれだ。
私自身は、余暇の一部でしかない。そこに生活や人生のすべてがあるわけではないし、強いつながりも求めていない。だから、あまり熱くなって誰かに向けて発信する必要を感じていない(もちろん、趣味について熱心に語ることはあるが、そこで否定的な言葉を使うことはほとんどない。余計な誤解を生み、トラブルになるのが嫌だからだ)。
しかし、SNSがストレス発散の場である人もいれば、唯一の居場所だという人もいるだろうし、自分の一つ一つの発言に価値がつき、発言がそのまま商売道具になっている人もいるのが、この世界なのだ。そして、誰がどんな目的でそこに存在しているかは、簡単にはわからない。

確かなことは、その言葉を受けとる相手が不特定多数であるということだけだ。相手が何者かはわからないが、自分の発言がさまざまな意味で受け取られる可能性をはらんでいる。

だから、わたしたちは、自分が使う言葉に敏感にならなければならない。

その敏感さとは、その言葉を見た人がどう思うか、を想像することも大切なことではあるが、いろんな人がいるから、想像はあくまでも想像でしかない。今必要なのは、それ以前の問題だ。
自分の言葉の、思いの種類を見極めることだ。
いま発言しようとしている言葉が意見なのか、感情に任せたものなのか、その判断をするだけでもきっと意味があるはずだ。
「思うままに発言していい」というのは、文字通りの意味ではない。
「発言の自由」は何もかもが許される自由ではない。「良識の範囲で」という条件付きの自由だ。
しかし、「良識の範囲」という言葉もあいまいで、難しい。
私は、この国で、この社会で、人々が心身の健康を損なうことなく、幸福に過ごすための倫理観といったところではないかと考えているが、すでに述べたように、自分以外の人々の心を想像で理解することはできない。自分と100%、まったく同じ心を持つ人はいないから。
私たちがコントロールできるのは、自分自身だけなのだと思う。
もちろん自分の思うままにコントロールすることは難しい。孔子先生だってそう言っていたはずだ。
だから、意識的に自分の思考から生まれる言葉に、今までより敏感になるしかないのだ。

もっと言えば、自分の言葉に敏感になるということは、自分を冷静に見つめるでもあると思う。
自分の言葉で冷静さを鍛えていけば、ものごとを冷静に見極める力も、自然と鍛えられるのではないだろうか。それはきっと「自分の言葉がどう受け取られるか」を考えるヒントにもなる。

感情的になっている人に、いきなり「冷静に」となだめることは難しい。それはSNSに限ったことではない。
しかし、「それは意見?感情?」という二択だったら、少し考えやすくなるのではないかと思う。
そもそも、感情的になっている人は、何を言ってもダメだと思うので、二択問題なんてもっと炎上してしまうかもしれないが。

ただ、普段からちょっと冷静に考えるためのヒントを持っていることは、どこかで役に立つと思う。


冒頭で、私は「言葉は人間を救うと信じている」と言った。
私の場合は、それが友人や師の言葉であり、文学の言葉であったが、今は直接の知り合いでない人の言葉もSNSで触れることができる。本を読むよりもずっと簡単に。だからこそ、SNSは毒にも薬にもなるのだと思う。
自分の言葉とうまくつきあうことができれば、それはめぐりめぐって誰かを救うはずだとやはり私は信じている。だから、私は国語教師という仕事を続けているのだ。

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