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与えられる・求められる「かわいらしさ」への抵抗感

女の子のかわいらしさを求められることへの拒絶反応が、子供の頃からあった。
例えばかわいいエプロンとか。ファンシーでキラキラしたインテリアとか。マイメロディとか、キキララとか(固有名詞出してごめんね)。
女の子がキャピキャピかわいい声を上げるのも苦手だった。そういうタイプの人とは、今でも仲良くなるのにちょっと時間がかかる。
かわいいものは好きなのだ。例えばポン・デ・ライオンとか。ああいうキャラクター、好き。それが女の子らしかろうとそうでなかろうと、「私の好み」のかわいいものに囲まれるのは幸福なことだ。
ただ、女の子だからと当たり前のようにかわいいものを与えられることに抵抗を覚える。

女の子として求められる役割をどうして素直に受け入れられないんだろう。
かわいらしく、純真無垢に振る舞えば、男受けはいいのだろう。
男受けを狙っているわけじゃないのかもしれないけど、周りの多くの女の子たちはそういう振る舞いが上手だ。
そんなことで寄ってくる男性なんてごめんだと思う。私はそんなに純粋なハートの持ち主でもないし、かわいいことも言えないし、そんなやつだけど、それでも「ひとりの人間」として、誰かに好かれたいのだ。
「そんなんだから結婚できないのだ」と人は言う。
私は、思い上がっているのだろうか?
自分は他の人とは違うって思っている、自己愛の強い人間?なの?

私は高校で働いている。
学校の世界というのは、基本的に男と女に分けたがるものだ。成長期で思春期の、力や思考の加減がまだ上手くない子どもたちを相手にしているのだから、必要に応じて(例えば男女の体格差が安全上問題になる時や、異性に対する嫌がらせが生じる時なんかは)、男女で区別するべき状況もあるだろう。
それは重々理解しているつもりだ。
だけど、私にとって耐え難い状況というのが、稀に、ある。それは、その場にいること自体が苦痛であると同時に、なぜこんなに苦しいのかと、自分の性自認と向き合わざるを得ない時間となる。
例えば、学園祭でチアリーダーの女の子たちがステージで踊るとき。元気な男子高校生たちが我先にと最前列の座席を陣取って、歓声(というより雄叫び)を上げる。
…世の人たちはこういうのを健全って言っちゃうんだっけ?
中学生の野球大会で、アイドルの女の子が取り囲まれてちょっと危険な状況になったっていう話を思い出す。動画を見て怖いと感じたから。
もちろんチアリーダーのステージは、学校行事でやっていることだから、安全は確保できている。物理的には。
でも。
女の子としての役割を全うする姿は、それを欲望する男性の眼差しに晒されていると言えるのではないか。
私はその眼差しが怖い。自分に向けられていなくても、怖い。
かわいいと言われて、異性にちやほやされる(うまく言葉を選べない…)ことは、嬉しいことなのか。
そこにひとかけらの嫌悪もないのか。
それがふつうの感覚なのか。
だとしたら、私はある種のマイノリティなのだろうか。

LGBTsとかLGBTQとか、あとFtXとかFtMとか。
いろいろあるけれど、これは性的指向の話ではない。
性的指向で無理やり区別するならば、私はパンセクシャルだと思う。性別じゃなくて「その人だから」好きになる(でも、男性に性的対象として見られることは…やっぱり苦手かもしれない。女性にだったらいいのかと言われると、そこは「?」だけど)。

では、表現する性が男なのだろうか?
レディースファッションのひらひら、ふりふりしたものは確かに苦手だ。とはいえ、男装をしたいわけじゃない。
インテリアは、シンプルな方だと思うけれど、「男の部屋」というほどでもないだろう。
性表現でカテゴライズするとしたら、「中性的」か「やや女性的」、といったところだろうか。

冒頭の「女の子らしさ」について、私は他者から押しつけられることに対して、抵抗を感じるということを書いた。
同じように、仕事で「女だから」と区別されるのも、好ましくない。女だからできない仕事があるのは、いつだって悔しいと思う(例えば、育児中の女性教員は放課後の担任業務や部活動指導がほとんどできないシステムになっている)。どうして? 女性が出産や育児をしながら、男性と対等に働くことが前提になっていないのはなぜだ。私は、この先もずっと、対等に働きたいのに。

結局、社会的に当然のこととして割り振られている「性役割」への抵抗感が強いのかもしれない。
「女性だから、かわいいものが好きでしょう?」
「女性だから、もっとかわいらしく振る舞えるでしょう?」
「女性だから、できない仕事があって当然でしょう?(子どもを産むのは女性の幸せでしょう?)」

私は、「女性として」の性役割を引き受けることに苦痛を感じる。役割を受け入れられない。

かといって、そこから、逃れて生きるなんて、簡単にはできないのだ。
私は、私の違和感に折り合いをつけて、生きていくしかないのだろうか。苦痛を感じながら。諦めながら。
そうやって、折り合いをつけている人はどのくらいいるんだろう。どこにいるんだろう。
この違和感を、わかってくれる人はいるんだろうか。
少なくとも私の周りでは、ほとんど見えないあなた。
あなたは、つらくないんですか?
私たちは、このままずっと我慢し続けるしかないんですか?

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