答え合わせ。勘違い。
R6年5月〜6月に読んだ本は写真の2冊だった。毎回、半分は知っていることが書いてあって半分は知らないことが書いてある本を読む。知っていることが書いてなさすぎると理解できない、興味を持てない、読み進められない。成人の発達障害に関してもそうなんだろう。知っている人はさらにどんどん知ってく。知らない人はずっと知らないまま素通り。
柴崎友香氏の『寝ても覚めても』を読んだ時、カメラアイ、文脈のない言動、夢と現実の二重世界を生きてる感じの描写あり、なぜこの作家さんは発達障害者の感じ方・体験の仕方を知ってるんだろうと不思議だった。柴崎友香氏の最近の著書『あらゆることは今起こる』で柴崎氏がADHDと診断されていると知り、納得した。答え合わせした感覚。発達障害者は人の文章や言動からその人の発達障害らしさを察知してしまいやすい気がする。答え合わせとは、この人は発達障害かな?と思った人が本当に発達障害だったという答え合わせと、私自身に発達障害傾向はあるという答え合わせであり、仲間を見つけ出せた!という感動。
20代の頃、自分がない、と、ある人の前でつぶやいたら、「そういう深刻な話はしないでほしい。そういう話は専門家にしてほしい。」と言われた。びっくりした。自分がないという感覚はあまりに普通のことだったので。あの時すでに、ずれていた。皆とのずれに気づいた瞬間は何回かあったが、ごまかしてやり過ごせた。だから元気だった。
"何かをものすごくやりたいと思った時、それは私に急に主体性が芽生えたわけじゃない。" 相手の感情を自分の感情だと勘違いしただけ。相手に依存し支配されてくことに気づいてないだけ。この先限界以上頑張って具合が悪くなる予兆。かもしれない。残酷だけど。
だから私のような、自他の区別が無くなる瞬間があるASD傾向のある人は、本当にやりたいことを見つけるんじゃなく、①こういうことはやりたくない、とやりたくないことを見つけてそれだけは守る、②人との距離は少し寂しいくらいで保つ、③退屈を飼い慣らす、というスタンスがよいのかなと思った。やりたくないと感じることができたら、それだけでもすごいことだった。
どこまで行っても自分の意思とか主体性とかは見つからない。見つかりそうになると勘違いだと気付き、降り出しに戻る。
過去の自分が取った言動で、自分が取ったと思えないものがけっこうある。別な人が取った言動に感じる。なぜあんなことしてたんだろう、とぞっとしたりびっくりしたり。よくあんなことしてたなぁ、その当時はそうしたかったんだろうなぁ、と、俯瞰した視点で、傍観者みたいに、他人事みたいに、思う。周りに影響されて自分以上の力が出てたなぁ、今とは180度違う考えに染まってたんだなぁ、今は絶対できっこない、とか思う。
でもそれくらいに自分とは距離がある記憶も経験も、自分のものとして引き受けなきゃない。自分の過去の言動に責任や関心を持たなきゃない。過去と現在と未来の言動の関係性、どういう理由・どういう経緯で今こうしているか、を言葉にしていかなきゃない。それが定型発達者やこの社会にとっての自明なんだろうし、ちゃんと反省しているってことになったり、社会的に信用してもらいやすくなったり、思い出を人々と共有できたりするんだろうから。多少嘘っぽく感じても物語ってくこと、自分の要素を限定し要約して自分を定義すること、それに慣れてくことがこの社会で皆と共に生きてくということ?