強迫性障害と発達障害の関係性

なぜ私は強迫性障害になったんだろう。なぜ私は、数ある精神障害の中でも強迫性障害(OCD)というものを表現形として選んだんだろう。

OCDは、発達障害、不安障害、精神病圏との境界が不明瞭だと感じている。OCDは、自生思考とか精神病圏とも隣り合わせという文脈で語られたり、発達障害者の二次障害あるいは発達障害と鑑別すべきものとして語られたり、精神分析的には親への攻撃性の置き換え・反動形成とか、肛門期への固着として語られたり。OCDは様々な文脈で語られる。また、頭では分かっているのに〜せずにいられないという点は、依存症、摂食障害とも近さがある。そのため、私は色々な精神障害のことをいつも自分事のように身近に感じられる。仕事に対して自然に、ただ生きているだけで特に労力もなく積極的関心を持ち続けられるのは幸せなこと。だから私はOCDになれて良かった。

精神科医になってから色々な患者さんを診て思ったこととして、OCDがある人の背景に虐待や性被害があることが意外と多いこと。虐待まではなくても、ひとり親家庭で育ち過剰な責任感を持っていたり、老親が亡くなってからうつ病の一症状として強迫症状が出てくる人がいたり、親との関係性や生育環境抜きには語れないこと。一人でやり遂げたいからほおっておいてほしい気持ちと、不安で誰かに頼りたい気持ちが同居。自分がないように見えてすごく自分を持っていること。自立と依存の間。他者配慮性の裏にある自己中心性(共依存の傾向)。葛藤、矛盾。私も、OCDになったことを通して様々な気づきがあり、AC(アダルトチルドレン)概念との出会いがそれを加速させた。

ADHDの不注意症状があって、その自覚があるからこそ確認強迫の症状がある人もいた。私もそうかもしれない、とたまに思う。”素早くはできない、急ぐと結構な確率でミスをする”という自覚があるから、何度も何度も書類を確認するのかもしれない。実際、電気を消したか、鍵を閉めたか等を確認をしている時、誰かに話しかけられたり何か音がすると頭の中で他の事を考えてしまい、確認行為に集中できなくなりもう一度確認をやり直す。私、実は集中ができないのかな?同時に色々なことができない?ADHD傾向あるのかな?とたまに思う。それに私には、こうでなければならないという頑なさがあって、例えば、いつも物を同じ位置に置いてその物体が落ちそうじゃないかを確認する。変化することへの不安、同じが安心、頑なさ。そういうのはまるでASDみたい。本当にここらへんは教科書にも書いていないと思うから断言したり適当なことは言えないけど、発達障害(ADHD、ASD)とOCDの関係性については当事者研究の余地がありそうだから、たくさんの人のお話も聴いて考えていきたい。

私はキョロキョロしている赤ちゃんだったらしい。自転車に乗れなかった。ブランコが怖かった。光がまぶしかった。目をつむると骸骨が見えた。ウインクが片方しかできない。絶対音感がある。テレビの音がうるさく感じ、テレビCMは毎回消音にする。うるさい病棟ではカルテが書けなかった。天然だね、と言われていた。嫌なことが断れなかった。人を疑わなさすぎた。作文を書く時いつも「印象に残ったのは......です」というパターンで書いていた。担任の認識と事実が食い違っているままが嫌で、悪いことをしたクラスメイトのことを担任にいちいち告げ口してた。

発達障害(非定型発達)と定型発達はスペクトラムで連続性があり、OCDの私はそのスペクトラムの非定型寄りの位置にいるのかもしれない。ただただそう思えることで、患者さん達のことを仲間だと思えたりして、これからも仕事を頑張れる気がする。だからきっと私は、私の人生は、これで良かった。これが私らしさにさえなった。

でも、私の周りには、良かった!だなんて手放しで喜べない人もいるかもしれない。確認行為に巻き込んだ家族と、その他迷惑かけた皆(大学時代の友人、先生、職場の人など)、ごめんね、ありがとう。

OCDになったことで得たもの色々。そっちを数えよう、失ったものじゃなく。意味を見出してこう、美化はしないで、無理ない範囲で。

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