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"なんとなく好き"のままがちょうどいい。

嫌いな学校で数少ない好きなものだったのに、「恋人」の説明で合理的な意味を与えらて、とつぜん陳腐なものになってしまう。

江國香織さんの『ウエハースの椅子』より

好きだったものに対して、合理的な意味や理由を付けるとなんだか偽物になってしまった気持ちになる。

私は美術館が好きだ。とくにモネやカミーユなどが活躍した印象派がすきだ。それなりに美術展には足を運んだし、旅先にある美術館の常設展も必ずチェックするほどには好きだ。

だからこそ、美術の勉強もそれなりにした。美術の流れや書き方、有名な画家の名前などはなんとなく把握している。

美術について学べば学ぶほど、純粋に好きで見ていたころと比べて、絵画の楽しみ方が変わったように思う。

昔は色や大きさ、空気感や立体感など表面的なものをみていたように思う。でも今は、誰がいつ描いたのか、どんな状態の時に書いたのか、世間の評価はどうだったのかなど、さまざまなことに目がつくようになった。

勉強したからこそ、絵画や画家同士の繋がりなども知れて楽しみ方が増えた。けれども、あの頃の純粋な感動は2度と得られない気がする。

「○○の絵に似てる」
「あれは○○の絵だ」
「この技法の絵もかいてたんだ」

絵をみて1番に出てくる言葉たち。あの頃の言葉に表せない感動を懐かしく思う。

空や木、花をみて感じる「ああ、素敵だ」という感動は、枯らしたくない。名前も知らない花が咲いている姿は、愛おしい。

調べればすぐに答えがわかる便利な世の中だけど、知らないままでいることの幸せも忘れたくない。


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