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大さじ一杯のカイエンペッパー

幸せな夢を見ては目を覚まして泣いて、驚くほどゆっくりと明ける夜に呼吸を止められてしまいそうな夏があった。
八方塞がりの私を救ってくれたのは、きっと料理だったのだと思う。

一人で遠くに出かけては物珍しい調味料や食材を買い集め、夢中でレシピ集のページを繰った。
つやつやと光る野菜に包丁を入れ、焼いたり炒めたり蒸したり煮込んだりと忙しくしている間は無心になれた。

キッチンに、スパイスの小瓶が少しずつ増えていった。中でも一番好きなスパイスはホールのクミンシード。口の中でぷちっと潰れると、途端にエキゾチックな風味が広がる。生ハムにぱらっとかけるだけでも、美味しいつまみになるのだ。

水野仁輔さんのレシピ本を見て作ったスパイシーなチキンカレーは、とりわけ私のお気に入りだった。
自分だけのために作っていたこのカレーを、初めて誰かのために作った冬の日を今でもよく覚えている。
好物だと言っていたオムライスやラザニアとも迷ったけれど、まずは失敗しないようにと、作り慣れたスパイスカレーを選んだ。

じっくり、じっくり火を通して焦げ茶色になった玉ねぎに、色とりどりのスパイスを少しずつ振り入れる。私の手元を、彼が隣から覗き込む。ターメリック、コリアンダーシード、クミンシード、カルダモン、ガラムマサラ、そしてカイエンペッパー。

「カレーはカイエンペッパーで辛くなるんだよ」と言うと、私と同じく辛党の彼は「もっとたっぷり入れて」とせがむ。
レシピのカイエンペッパーは小さじ1。よし、大盤振る舞いだ、と大さじいっぱいすくってフライパンに入れた。
漂ってくる香りがすでにキリリと辛く、なんだか目がしぱしぱする。

カレーが二皿、テーブルに並んだ。
いただきます、と彼がスプーンを口に運ぶ。

「辛いね」「だいぶ辛いね」「いや、辛いよね」

動揺するほど辛い。涙がじわりと滲むほど辛い。おしゃべりもままならないほど辛い。一言目が「美味しい」じゃないことを責められないくらい辛い。二人とも辛いものが大好きなはずなのに、辛すぎてなんだかあまり美味しくない。せっかくの腕の見せ所だったのに口惜しい。

でも、残さず一生懸命食べてくれてありがとう。優しい人だな、ってあの時思ったよ。
せめて、たっぷり大さじ一杯の愛情が、届いていたらいいのだけれど。

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