見出し画像

がんばったで賞

評価は他人が決めるものだと思う。
どれだけ時間を割いて練ったものでも、練習したものでも、勉強したものでも、ダメなものはダメなんだと思う。
努力を否定しているわけではなくて、きっと、頑張ってもダメなものは努力の方向性が間違っている。それに気付くために、つくったものだけで勝負する必要があるし、フィードバックが必要だと思う。「頑張りました」って情に訴えかけているうちは、自分の力を真っ直ぐ理解できない。本番だけの評価で自分をはかって、努力の在り方を見直して、またいいものを目指していく。その繰り返しによって実力がついてくる。

だから、「頑張ったのに」「頑張ったね」「頑張ってるね」は嫌いだ。

左利きのエレンより


学校はがんばったで賞が好きだ。
生徒も「私はこれだけやってきました」って、自分がどれだけがんばったかを必死に伝えてくれる。がんばったってダメなものはダメだって突き返すのは、15年も生きてない生徒には少ししんどいかもしれない。なんなら私もしんどい。でも、世の中そんなキラキラしたものばかりじゃないなと22年しか生きてない人生でも思うことがあって、中学生の頃からそれを知っておくのは悪い教育じゃないと思っている。

学習指導要領が改訂されて、「主体的に取り組む態度」が評価観点の一つとなっている。
「主体的に取り組む態度」は"どれだけがんばったか"ではなくて、"がんばりが結果に結びついているかどうか"だと思ってたんだけど、意外と前者が採用されていたりする。
とにかく頑張れば評価してもらえるって思い込むには十分で、がんばったで賞を目指す人が量産されていくんだなと思う。

1ヶ月間、教員をやってきた中で感じるむず痒さの正体は、がんばったで賞にちゃんと「がんばったね」と伝えないといけない先生という立場だ。私がなりたかったものってこんなものだっけ。






先生ってムズイヨネ。








そんな私も、まだまだがんばったで賞。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?