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最果タヒの“タヒ”は死ではないらしい

今日、TwitterのTLに詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の写真が流れてきて、よくよく見ればそれは中国語版(文景簡体版)の装丁になっていた。

日本では映画化されるほど人気の詩集が、いよいよ中国でも発売されるらしい。
よく知った装丁デザインの上に、馴染みのある漢字とそうでない漢字が入り交じったタイトル。まるで平行世界の書物みたいだ。

著者名のところを見てみると、最果タヒの名前が中国語表記になっていた。

最果夕日

あぁ、すごいと思った。
特定の意味を帯びていない“タヒ”という音に対して、意味を帯ざるを得ない漢字を当てはめる、その仕事が繊細な作業であることは想像に難くない。
だからこそ、ここでカタカナの「タ」を夕方の「夕」に変換してしまう大胆さに痺れてしまう。
最果の夕日。日本語オリジナルである死(タヒ)とは意味が異なるが、絶妙にニュアンスが残る素晴らしい翻訳だと思った。

そんな感想をTwitterに投稿した直後、最果タヒさんの本人のRTが流れてきた。


最果タヒの“タヒ”は、ネットスラングの“死”を意味するものではなかったらしい。
ぼくはずっと死のことだと思い込んでいたけど、この事実を知ったときに、やっぱりそうか、という感想を抱いた。


ぼくが最果タヒという詩人の存在を知ったときにはすでに、ネットスラングとしての“タヒ”が世に広く知られていた。
だからはじめてその名前を見たとき、当然のようにそれを“死”と読んでしまい、正直に言って、嫌な名前をつけるなと思った。第一印象はかなり悪かった。そんな初対面の印象はなかなか拭えないまま、ぼくは長らく最果タヒの著作を読まずに敬遠してきた。
しかし、何気ないきっかけで手に取った詩集『死んでしまう系のぼくらに』で、ぼくは最果タヒに完全に心を掴まれてしまった。
めちゃくちゃいいじゃないか。最高じゃないか。
特に「きみはかわいい」という詩が好きで、街を歩きながら諳んじることもある。

いい作家に出会うとたまに「なんでもっと早く読んでおかなかったんだろう!」と思うことがある。最果タヒもそうだった。
なんでもっと早く最果タヒを読まなかったのか。
“タヒ”のイメージが悪かったからだ。死を“タヒ”と表記し、それを名前にしてしまうなんて、本の中身(詩)のセンスと大きく乖離していて、「そりゃ誤解してしまうよ…」と思った。
そんな名前つけなけりゃいいのに、と思っていた。
だから、最果タヒの“タヒ”が死ではないと知ったとき、すとんと腑に落ちたのだった。
もしかすると最果タヒを読まないままだったかもしれないほど、ぼくにとっては不幸な誤解だった。 

 一方で、その名前だからこそのいい誤解もあったのだろうと思う。
ネットスラングとしての死と『死んでしまう系のぼくらに』に代表されるようなポップでライトな装丁が、ある種の相乗効果を生んだ可能性は見逃せない。“タヒ”を死のネットスラングと誤読してしまうことで、魅力が増幅した部分もあると思う。

詩も小説も、著者が予期せぬような読み方を読者がすることがある。
この誤解は、誤読であり、誤配とも言える。
予期せぬ解釈を導き、その結果、予期せぬ人の手に本が渡ることもある。

最果夕日という大胆で品のいい翻訳によって、中国でまた別の誤解を生むかもしれない。
中国語表記の名前について考えてみれば、カタカナを「タ」を夕方の「夕」に変換できるなら、最果タヒのヒは「比」にすることも可能だっただろう。形もよく似ているし。

最果夕日 最果夕比

うん。こうやって見比べてみても、やはり最果夕日は最高に美しい誤解だと思う。こういう素晴らしい一手を目撃すると、うっとりしてしまう。

<了>