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短編小説『克子のこと』全文無料公開

 なぜだか分からないが、時おり克子のことを思い出す。克子とは、私が小学五年生の春に引っ越してきた転校生だ。

 中学卒業以来会っていないし、どこで何をしているのか知らない。記憶は年とともに純化され、思い出す克子はどこか現実感がない。日本人形のような、宇宙人のような。


 久しぶりに彼女のことが頭を過ったのは、工事現場のすぐ側だった。仕事を終えて帰途についたのが午後十時過ぎ。会社を出たときに降り出した雨は数分で止んだが、車に乗り込むまでにストッキングが濡れ、足が冷えた。

 対向車のライトが路面に反射して眩しく運転しづらい。大通りではなく裏道を帰ろうと思い、ハンドルを切って交差点を曲がると、二車線道路が片側通行になっていた。

 交通誘導員が赤色に光る誘導灯をかざし、私はその少し手前で車を止めた。軽く頭を下げる小柄な誘導員は、はっきりとは分からないが女性だろうと思った。そして、ある記憶が蘇った。

『あら、あの誘導員の人、克子ちゃんのお母さんじゃないかしら』

 頭に浮かんだのは母の声だ。

 小学五年生の、たしか秋も深まった頃のことである。演劇か何かを観に行った帰りで、時刻は同じように十時を過ぎていた。運転席の母の横顔を、私は助手席に沈みこんだまま眠い目を擦って見上げた。

『克ちゃんのお母さん?』

『うん。夜も働いてるのねぇ』

 私は体を起こすこともなく、そのまま眠ってしまった。窓の外を見たからといって、それが克子の母かどうか分からない。克子の母親の顔を、当時の私は知らなかったのだから。参観日には来ていなかったはずだ。

 初めて克子の母親を見たのは、小学校の卒業式だった。克子の隣に立つ姿を目にして、なんと似ていない母娘だろうと思った。

 長い黒髪、白い肌に切れ長の目、スラリと華奢な体をした克子。男のように短く刈った頭に黒く日焼けした肌、顔には深く皺が刻まれた克子の母。小柄でずんぐりとして、黒っぽいパンツスーツの上からも筋肉質なのが分かった。見た目は他の子の母親よりも随分老けて見えた。

 誘導灯が振られ、ハッと我に返った。

 二つの瞳がこちらを見ている。交通誘導員が赤色の光を往復させ、私はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。横目にうかがったその顔はやはり女性のようだったが、克子の母でないのは確かだった。

 家に着くと、二人の娘を寝かしつけた夫はそのままベッドで寝息をたてていた。学習デスクに置かれた二つのランドセルを開け、連絡帳を確認する。夫の字で、それぞれ二行ほどの文が書いてあった。

 夫は主夫である。

 そのあり方に時々疑問を感じるのは、それが「普通ではない」という態度を他人からとられたときだ。甚だ余計なお世話だが、仕方ないとも思う。

 他人の家のことなど話のネタにしかならない。家族が納得していれば、他人の理解を望む必要はないのだ。

 ふと思い返すだけの克子の家庭事情に、私がつい同情をおぼえてしまうのも余計なお世話なのだろう。

 子どもだった私は克子がどんな境遇にあったかなど考えもしなかった。ただ学校で顔をあわせ、勉強して遊ぶだけで、悩みを打ち明け合うような仲ではなかった。

 私が通っていたのは村立の小さな学校だ。

 村で生まれると保育園から幼稚園、小学校、中学校まで同じ顔ぶれで過ごすことになる。もっとも平成の大合併で隣の市に吸収され、今ではその村自体がなくなってしまった。

 克子は県庁所在地である隣の市から引っ越してきた。彼女が学校に馴染むのに時間はかからなかったように思う。

 成績が良く、スポーツもできて気さくな彼女は、小六から中三までの間に何度か学級委員をしていた。それにピアノが上手く、小学校と中学校合同で毎年合唱コンクールが開催されていたのだが、私たちの学年のピアノ伴奏は克子が転校して来てから彼女の担当になった。

 制服のリボンの結び方や、靴下の長さ、髪型など、克子のスタイルは他の同級生とは少し違っていた。市内の学校の友人とも交流が続いていたのかもしれない。克子のスタイルが流行りのように思え、そうして周りが彼女の真似をしていった。

 優等生というよりも「できるけれど斜に構えている」といった風で、克子と仲良くなる同級生も概ねそんなタイプの子だった。同級生を野暮ったい人から垢抜けている人まで順番に並べるならば、垢抜けた側の上位だ。

 私は野暮ったい側の人間だったと思う。けれど当時の私はあまりそういったことに頓着せず、話しかけられればついていくというような、あまりポリシーのない人付き合いをしていた。まあ、それは今でも変わりないのかもしれない。

 思い返すほどに不思議になるのだが、なぜか克子は私によく話しかけてきた。

 ひとつ思い当たる理由があるとすれば、合唱コンクールに向けて音楽室でピアノの練習をしている彼女を、私はずっと側で見ていたことがある。他には誰もおらず、どうしてそういうシチュエーションになったのかも覚えていないけれど、私は克子の指の動きに魅了され、じっと演奏を聞いていた。

 そして、野暮ったい私は野暮ったいままで克子のグループにも居場所ができた。小六の時には「好きなようにグループを組んで」と言われた修学旅行の班組みで克子と同じ班のメンバーになり、夜中に男子の部屋に忍び込んだりもしたのだが、夫に話したらどんな反応をするだろう。そういったタイプの人たちが自分のまわりにいたのはその頃だけだ。

 連絡帳をランドセルに戻し、シャワーを浴びてキッチンで冷蔵庫を開けた。ラップのかかったお皿に白身魚のフライがのっている。おかずの小鉢と缶ビールを一緒に取り出して、冷蔵庫を閉めたとき一枚のプリントが目に入った。

 マグネットでとめられているのは『スマートフォン使用について保護者向け研修会の案内』。なるほど。悩ましい問題だ。

 大人でもネットは怖い。好奇心旺盛、無鉄砲な子どもたち。その無邪気さは羨ましくもあるけれど、いずれ娘たちにスマホを持たせる時のことを考えると、LINEいじめ等々心配は増えていく。

 一人で晩酌しながら、プリントを眺めた。

「おかえり」

 声をかけられて振り返ると夫が立っていた。「俺も飲も」と冷蔵庫からビールを出し、私の正面に座る。一緒に食事をとるときはいつもその席だ。左右が娘たちの席。

「小百合、プリント見た?」

「スマホのでしょ?」

「うん。なんてゆーか、俺らの頃とはずいぶん変わったよなぁ。昔はのんびりしてたわ」

 夫はゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲み、げっぷをした。

 夫が家に入り、私が外で働くという選択をしたのは下の子が一才になった頃だ。

 向き不向きというのはたしかにある。それ以前、私も夫もそれぞれの日常にストレスをため続けていた。

 今の形になったきっかけは、夫の勤めていた会社が倒産したことだった。最初のころは「稼いでないのにビール飲んでいいのかな」と申し訳なさそうにしていた人が、こうして気兼ねなく缶を開け、旨そうに頬を緩めて喉を鳴らす。

「あ、そういえば」と夫が改まった顔で私を見た。

「なに?」

「小百合の母さん、もうすぐ誕生日だろ」

 壁に貼ったカレンダーに目をやるけれど、そこに印がつけられているわけではない。

「よく知ってたね、信君」

「美優がさ、覚えてたみたいで。お祖母ちゃんに何かあげないのって言うから、じゃあ手紙書いたらって言ったんだ。そしたら美誠とふたりして何か書いてたよ」

「ふうん、手紙ねえ」

 実家には年に一度、正月だけ顔を出している。夫と結婚するまでは正月すら帰らなかった。結婚後数年は盆と正月の二度、泊まりがけで行っていたけれど、夫の代わりに私が働くようになってから正月の日帰りだけになった。

 仕事が忙しいからではない。我が家のスタイルが母には理解できないと悟ったからだ。

 私が働く方が互いにストレスがないのだと何度説明しても、母は顔を合わせるたび「信行君、まだ仕事見つからないの」と言う。私に言うのならまだしも、夫に言っているのを目にし、もういい加減にしてくれと思った。

「俺も手紙書こうかな。そろそろお義母さんも諦めてるかもしれないし」

「主夫業のこと? 価値観ってそんな簡単に変わるもんじゃないよ」

「まあ、それでもいいよ。四人で手紙書いて、なんかプレゼントと一緒に送ろう」

「私も書くの?」

「書くの」

「不幸の手紙でも書いてやろうかな」

 冗談でこぼした自分の言葉に、また克子のことを思い出した。不幸の手紙だ。

 彼女は私に不幸の手紙を寄越した。私だけではなく、不幸の手紙の文面にあった『○人に送らなければ一週間後に死ぬ』という、その○人に送ったのだろうが。

 私が小学校の頃とは、昭和の時代だ。スマートフォンなどなく、通信手段といえば基本電話、そして手紙。

 キャラクターものの可愛い便箋というのが、小学校の頃には魅力的な文具だった。とくに使う予定もないのに買ってもらったりもした。が、それに『死ぬ』などという言葉を書くとは、買ってもらったときには思いもしなかった。

 当時、学校は週休二日ではなく、土曜日は午前中授業、日曜日が休みだった。小学校の近くには村の公民館があり、そこには小さな図書室があったのだが、土曜日は公民館のロビーで友だちとお弁当を食べ、バスが来るまで図書室で時間を潰していた。

 克子から手紙を受け取ったのは土曜日だった。

 図書室では何人かがそれぞれに好きな本を読んでいて、私はトイレに行きたくなり一人抜け出した。トイレから出るとそこに克子が立っていて、「これ」とクローバーの絵柄のついた封筒を差し出した。黄緑色の蛍光ペンで『小百合ちゃんへ』と書かれていた。

『手紙?』

『うん。他の子には内緒ね。絶対に帰るまで開けちゃだめだよ』

 変なところで生真面目な私は、克子の言った通り家に帰るまでその封筒を開けなかった。同じバスに乗った他の子にも何も言わなかった。

 何が書かれているのだろうとドキドキし、玄関を開けてランドセルを下ろすとすぐにその封筒を開けた。四つ折りにされた紙を広げると、緑色のペンで便箋の中ほどまで文章が書かれている。

 それが、まさかである。幸運の象徴であるクローバーの便箋で、不幸の手紙を送るとは。

 克子なりのユーモアだったのか、多少なりとも不幸が回避されますようにという気遣いなのか、何も考えず適当に家にあった便箋に書いたという可能性もなくはない。

 不幸の手紙の文面は覚えていない。たしか短いオカルト系の物語が書かれていて、同じ内容の手紙を緑のペンで書き、○人の人に送らなければ一週間以内に死ぬというようなものだったはずだ。

 正直私はオバケとか呪いとか、そういう類の話が苦手だった。小さい頃から何度も金縛りにあっていたし、その間に目にするものは極力夢だと思おうとしたけれど、怖いことに変わりはなかった。

 だから、不幸の手紙を寄越した克子に対して怒りや嫌悪を感じるよりも、ただただ本当に死んだらどうしようと、恐怖でいっぱいになった。

 けれどそこは小学五年生である。一方でこんなもの真に受けるなんて馬鹿だと思ったりもした。

 宿題も手につかないまま、とりあえず便箋と封筒を用意し、緑のペンがなかったので色鉛筆を取り出した。けれど、克子の手紙と同じものをそこに書いたとして、誰にも渡しようがない。渡した相手が死んじゃったらどうしよう、そうあの頃の私は考えていた。

 そうして椅子に座ったまま便箋を見つめ、色鉛筆を持っては放り、そうこうしているうちに、近所に住む同級生がやってきた。

『小百合ちゃん、これ』

 その子が両手で差し出した封筒には、緑のペンで『小百合ちゃんへ』と書かれている。

『やだっ。ごめん。いらないからっ』

 そんなようなことを言って、私はその友だちを玄関の外に押し出した。その子も悪いという気はあったのか、無理やり渡してくることもなかった。

 そのあともう一人やって来たのだけれど、私が『○○ちゃん、克ちゃんから手紙もらった?』と訊くと、『小百合ちゃんももらったんだぁ』と肩を落として帰っていった。

 日曜の午前中には三人の友だちから電話があった。手紙をもらったかどうかの確認と、誰かに渡したかどうか問う内容の電話だった。

 どうやら他の学年まで広まっているらしく、友だちの一人は『お母さんが学校に電話するって言ってた』と腹立たしげに口にしていた。そのとき、私は『怒ってもいいんだ』と気づいたのだった。

 けれど、克子に対する怒りは湧いてこなかった。克子も誰かから不幸の手紙を受け取ったはずである。きっと、前に通っていた学校の友だちなのだろうと思った。

 どちらかと言えば、その時の私は克子も同じ被害者として認識していた。手紙を持って私の家を訪れたのも、電話をかけてきたのも、いつも克子と一緒にいるメンバーだった。

 私は自分の部屋で途方に暮れていた。学校に連絡を入れてそれで解決、と思えるのはオカルトをまったく信じていない人間だ。悲しいかな私はそうではなく、『死んだらどうしよう』がずっと頭の中を回っていた。

 母が訝しげに声をかけてきたのは、日曜の三本目の電話の後だ。今ならこうはならない。あの頃は居間に置かれた黒電話を使うしかなく、私の三度の通話を母は見ていたのだった。

『小百合、しょっちゅう電話かかってくるけど、何かやってるの?』

 母の性格を考えると「そんなもの気にしなきゃいいのよ」と呆れられそうで、私は打ち明けるのを渋った。けれど恐怖には勝てず、一度部屋に戻ったものの、克子からの手紙を手に居間に顔を出した。そして昨日からの出来事を話し、渡された手紙を母に見せた。

 サッと便箋に目を通した母は、私の予想通り呆れ顔でため息をついた。

「死ぬわけないでしょ。気にしなきゃいいのよ。小百合、こんな手紙誰に渡したいの?」

「渡したいわけないじゃん。いいよ、もう。気にしないことにする」

 母の口から「死ぬわけない」と言われたことで、少しだけ気が楽になった。けれど、次は手元にある不幸の手紙をどうするかで悩み、ついつい読み返してしまい、また死ぬんじゃないかと思えてきた。

 午後になっても悶々としている私を見かね、母がある提案をした。

『そんなに気になるなら書きなさい』

『でも、書いても渡せない』

『燃やしてあげるから。○人分、○通の手紙を書いて、その小百合がもらった手紙と一緒に庭で燃やしてあげる。ついでに塩も撒いたらいいのよ』

 塩と炎で浄化されることを願い、私は母に言われた通り不幸の手紙を書いた。便箋に緑のペンで、もらった手紙に書かれたことを写していった。

 書きながら「なんてバカバカしいんだろう」と思い、「克ちゃんはどんな気持ちでこれを書いたんだろう」と考えた。

 克子は「不幸の手紙なんて嘘っぱち」というタイプに見える。まわりがオロオロするのを楽しんでいたのかもしれない。でもそうではないかもしれない。

 友だちから不幸の手紙を受け取って嬉しい人間なんているはずはない。そう考えると、死にはしなくても、やはり不幸の手紙は人を不幸にするのだ。

 私が不幸の手紙を書いたのは、猫のタマと犬のポチが描かれた水色の便箋だった。黙々と書き写し続けて、手が疲れたのを覚えている。

 夕方に父が帰ってきて、家の庭で手紙を燃やした。父は便箋に一枚ずつマッチで火をつけ、赤く燃えるその紙を空の一斗缶の中に放っていった。

 母が「はい、これ」と塩ののった小皿を私に手渡し、私はそれを一斗缶の中に撒く。何かの儀式のようだと思った。

 実際それは儀式だった。私の中の恐怖を払うための、母が考えた儀式。

 母とは中学生になってからひどくぶつかった。正直なところ母と私の性格は合わない。母は自分の考えを押し付けるばかりで、こちらの言い分を口にしようとしても「世間が分かってない」「常識はずれ」と一蹴されて終わりだ。

 私が母との関わりで最終的に得た結論は、血の繋がりを理由に分かり合う必要はないということだ。

 結婚して娘が生まれ、そうしてふと自分と母が重なる瞬間がある。娘たちを叱ったり、諭そうとするとき、「他の子は」とか「普通は」という言葉を無意識に使い、自分でもハッとすることが何度もあった。結局は自分も同じ穴のムジナなのだ。

 夫が主夫になって以来、母の価値観を否定するようなことばかり考えていたけれど、今なぜかこうして不幸の手紙の件を思い出し、少しだけ母を見直している自分がいる。

 いまだ痼はあった。けれどそれも、自分が意固地になっているだけかもしれない。

 あのとき、母は私の恐怖につきあい、バカバカしい儀式までしてくれた。私があの手紙で死ぬなど、微塵も思っていなかったはずだ。

 今、娘たちが学校で何かしらの悩みを抱えたとして、私は同じように添うことができるだろうか。最近、娘の寝顔ばかり見ている気がする。

「ねえ信君、不幸の手紙ってもらったことある?」

 不幸の手紙ぃ? と夫は頓狂な声を出した。

「何日以内に何人に出さないと死ぬ、みたいなやつだろ。俺はもらってないけど、たしか女子の間で流行ってたのが結構大きな問題になって、全校集会が開かれてた気がする。小学三年か四年のころだったかな。小百合はもらったこと、あんの?」

「あるよ。結局誰にも回さなかったんだけど、今の時代に生まれてたら分かんないなぁ。簡単に送れちゃうじゃない。やっぱり心配だ」

「美優美誠のこと? まあ、心配だよね」

「チェーンメールみたいなの来たら、あの子たち誰かに送るのかな。やだな、友だち同士で」

「小百合は、不幸の手紙を渡して来た子と、そのあとどうなったの」

 克子と、その後どうしたか。

 先生が教壇で「こういった手紙はもう出さないように」と言っていた場面は思い出せる。けれど、克子や他の友だちと何かそれについて話した記憶はなかった。

「とくに何も変わんなかったんじゃないかなぁ。よく覚えてない」

「へえ。友情決裂しそうなのに」

「なんだろ。嫌がらせで不幸の手紙寄越したんじゃないって、そう思ってた気がする。今思い返すと、またちょっと違うかな。その子転校生でさ、みんなの気を引こうとしてたのかも。不幸の手紙なんて嫌われちゃうかもしれないのにね。もしかしたら前の学校でいじめられたりしてたのかな。駅前の団地にお母さんと二人暮らしでさ、あんな辺鄙な田舎に引っ越してくるなんて、その子以外いなかったから」

 克子がいじめられていたかもしれない。そんなことは今まで考えたことがなかった。けれど、一度頭に浮かぶとそうとしか思えなくなる。

 思い出のなかの克子像が、ぐにゃんと歪んだ。

「小百合の実家、相当田舎だからなぁ。団地なんてあったっけ」

「あったよ。今は、分かんない」

「まあ、でも。小百合はその子のこといじめたりしてないんだろ」

「全然。だってその子うちの学校では人気者だったもん。カッコ良かったんだよ、ピアノ弾いてるとことか特に」

 夫はなぜか「そっか」と満足げな笑みを浮かべ、グラスに残っていたビールを飲み干した。

 なんとなく、母に何かしら贈ってみようかという気になっている。手紙は、まあ、気が向いたら書くことにしよう。

 とりあえず、今日も一日おつかれさまだ。

――end

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