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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #44【最終話】

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44. エピローグ


 平日を二日はさんで連休後半に突入した最初の朝。シンがCONAコナの裏手に自転車を停めてガレージのシャッターを開けると、入ってすぐの壁際に水色のバケツが置かれていた。突っ込まれたチューブからはプクプクと泡が出て、赤い金魚がのんびり泳いでいる。

「おっす、シン」

 パジャマ姿の海斗が奥の勝手口から顔を出し、ボサボサの頭をかきながらサンダルを突っかけてやって来た。彼はバケツの前にしゃがみ込むと、「おはよう、金ちゃん」と、あくびまじりに声をかける。

「森谷先生、昨日何時ごろ来たの?」シンが聞いた。

「七時半くらい。金魚鉢は店閉めたあとに水汲んでカウンターに置いといた。今日の夜に金ちゃん投入する予定」

「金魚のいない金魚鉢を店に置いてるの?」

「カミングスーンって紙貼ってな」と海斗は笑う。

 出目金のいなくなった金魚鉢は、シンの知らないあいだに海斗が引き取ることに決まっていた。反対する気はなかったけれど、金魚部屋がなくなってしまうのは少し寂しい。

 波留とは彼女が熱を出して以来会っていなかった。四月の連休が終わって五月に入り、一日、二日と授業があったけれど二日とも波留は休みで、そのあいだにシンは金魚鉢をきれいに洗って乾かした。赤い金魚はバケツの中で何事もなかったようにスイスイ泳ぎ、そして昨日、金魚鉢一式と一緒に森谷の車でCONAに運ばれて来たのだ。

「森谷先生、明日の昼にCONAでメシ食うらしいよ。金ちゃんのCONAデビューを見に来るって」 

「マジ? 俺、バイトしてるのバレたらまずいかな?」 

「手伝いって言っとけばいいよ。それより、シン。残りの連休ずっとCONAで働くなんて、なんか欲しいもんでもあるのか?」

 シンが言い淀むと、海斗がバケツから顔をあげてニヤニヤと笑う。

「波留ちゃんにお見舞いでも買ってくのか?」

「ち、違うよ。バイトは勇さんに頼まれたんだし、どうせ暇だから引き受けただけ。お金貯まったら包丁買うつもり」

「自分の?」

「うん」と、うなずいたものの、シンは恥ずかしくなって服を脱ぎ始めた。シャッターが全開なのを思い出し、風よけに膝あたりまで下ろして電気を点ける。海斗はCONAのワンボックスカーにもたれてシンを見ていた。

「海斗は今日入らないの?」

「入るよ。プロが俺の夢だし。なんか、こうやってそれぞれ進む道が別れていくんだって思ったら、ちょっと感慨深い気持ちになった」

 ずっと一緒にいるって難しいんだろうな、とめずらしく感傷的なことを海斗は口にする。

「俺、諦め悪いからさ。この先の道が完全にズレちゃう前にもう一回くらいフラれてもいいやって思ったんだ」

「森谷先生のこと?」

 海斗は照れくさそうに曖昧なうなずき方をする。

「俺が諦めたらその時点で可能性ゼロだろ。だったらダメ元で何かした方がマシかなって。もう生徒と先生じゃないんだし」

「それで、金ちゃんを餌に先生がCONAに来るよう仕向けたんだ」

 海斗は否定せずニヤッと笑うと、ため息でその笑みを引っ込めた。そして、「あの部屋に金魚いなくなったら、波留ちゃんどうするんだろ」と心配そうな顔をする。

「呼んだ?」

 声がして振り向くと、シャッターと地面のあいだの五十センチほどの隙間から波留がのぞき込んでいた。

「波留! ちょ、ちょっと待って」

 太腿までしか履いていない中途半端なウェットスーツ姿を、シンは慌てて前屈みで隠した。「別に見られてもいいだろ」と、海斗は愉快そうに笑ってシンの背中を叩いたけれど、波留は「ゴメン」と立ち上がり、シャッターの下から見えるのは彼女の足だけになる。海斗は「俺も着替える」と家に戻っていった。

「波留、体調は?」

 声をかけてみたものの、シンは少し緊張している。

「治った。金魚がここにいるって森谷先生に聞いたんだ。昨日、先生うちに来たから」

「金ちゃんそこにいるけど、こんな朝早くに?」

「シンがいるかと思って。自転車、店の裏に停めてるの知ってたからのぞいてみた。そしたら自転車があって、声がしたから」

 ウェットスーツに袖を通すと、シンはシャッターを押し上げて波留を招き入れた。音に驚いたのかバケツの中で金魚が跳ね、波留がしゃがみこんで手をかざすと、パクパクと口を動かして餌をねだる。

「餌は?」

「さあ?」

 彼女は「金魚係は海斗だもんね」と言って立ち上がった。空はすっかり明るくなっている。

「波留、帰るの?」

 波留は「海に行く」と背を向けて歩き出し、シンがサーフボードを手に追いかけていくと、道路を渡った先で待っている。砂浜の手前にある歩道で、彼女は手をかざして東の空を見つめていた。

「星は、夜だけのものじゃない。見えなくても星はある」

 波留はそう言ってぐるりと空を見渡し、飛砂防止柵の壊れているところから砂浜へ入っていった。

「俺たちが立ってるのも星だしね」

 シンが言うと、彼女は「そっか」と足下の砂を蹴り上げた。

 砂浜も海も思ったより人は少なく、コンディションの良い数キロ先のポイントに流れたのだろうとシンは思う。波留はサンダルを柵のそばに脱ぎ捨て、裸足で海の方へと降りていき、途中で拾った枝で砂の上に線を引いた。ストレッチで体をほぐしながら、シンはその様子をながめていた。

 四、五メートルほどの線が引かれ、波留はシンを囲むように線の開始地点まで戻ると、その先に見たことのある形を描く。クジラの尻尾だ。

「もしかして俺、クジラの中にいるの?」

「そうだよ」

 波留はシンのそばまで駆けてきて、大きな胸びれと、亀裂のような口と、つぶらな目を描いてザトウクジラが完成する。

「あの時のクジラは今もいるの?」

 シンが尋ねると、波留は「分からない」と寂しげに海に目をやった。

「話しかけても出てこなくなった。でも、夢の中に現れる。シンの微睡みの海みたいに。もう四次元散歩はできなくなっちゃった」

 四次元じゃなかったんだけど、と波留はつぶやく。

「波留はやっぱり四次元に行きたい?」

 シンが問うと彼女は首を振り、手に持っていた枝を放り投げた。

「留里ママと話せたからもういい。たぶん、留里ママは夜次元クジラと一緒に四次元に行ったんだ。三次元から四次元は見えないけど、ママは四次元にいるからいつもそばにいる。だから、僕はママがどのページを開いても楽しめるような人生を送る」

 波留は顔を真上に向けて、空のずっと上の方を見つめた。彼女の視線の先にある小さな雲が風に流され、千切れて空に溶ける。それでも彼女はその場所をじっと見つめ、つぶやいた。

「夜次元クジラはいつもそこにいる」

 波留が寂しくなければいい、とシンは海に祈った。波はザザンと音を響かせて応え、潮風が彼の背中を押し、シンが波留の手をとると波留は空を見上げたままその手を握り返す。もう片方の彼女の手は、いつものようにパーカーの胸元を握りしめていた。

                                  (完)


最後までお読みいただきありがとうございました。

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