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短編『春霞』全文公開

🌸『春霞』は『うたたねと茜空』の姉妹作です🌸


春霞


 綿を散らしたようなぼんやりした白が、ぽつりぽつりと点在していた。

 山裾から中腹にかけて杉林の深い緑が広がり、空に近づくにしたがって落葉した木々のくすんだ色になる。その侘しさに彩りを、とでも言うように、ポツポツと若緑と白の斑があった。

 山桜だ。

 トンネルを抜け、対向車の気配もない山道に車を走らせながら、汐はカーオーディオから流れる歌に声を重ねた。学生時代に飽きるほど聴いた、ファンキーモンキーベイビーズ。胸に去来するのは懐かしさばかりで、あの頃感じた内臓を押し出すようなエネルギーはどこをどう探しても見つかりそうになかった。

 景色が霞んでいるのは黄砂か花粉。すべての色が一枚の薄衣で覆われている。

 緩やかに蛇行する道に沿って、川が流れていた。視界がひらけてくると、遠くに一本のソメイヨシノが見える。あの下には四、五歩で渡ってしまえるほどの短い橋が架かっているはずだった。橋を渡って畑を突っ切れば集落にたどり着く。そのうちの一軒が汐の生まれ育った家だ。

 運転席側の窓を開け、水音を聞いた。

 雪解けのせいか、聞こえてくるのは轟々と激しい濁流音。汐の心は車よりも一足先に川を下って、海原へと向かった。青くひらけた視界、左右に伸びる水平線。それは原色の記憶を呼び覚ます。

 ――鯖威張る

 黒板にくっきりした文字でそう記したのは、汐の中学一年の時の担任だ。

 名を平尾といい、あと数年で退職という国語教師だった。ときおり言葉遊びともオヤジギャグともつかない文字を黒板に書き、ウケを狙うわけでもなくその意味を熱く語る。

 鯖威張る――否。人生はサバイバルである。未踏の地へ踏み出せ。

 ピィピィとサイレンのような鳴き声が聞こえ、汐は過去から引き戻された。不意に、二つの影が視界を過る。
 
「ヒヨドリか」

 口をついて出た言葉に、汐はまた平尾のことを思い出した。

 道の先に、記憶よりも数段太さの増したソメイヨシノがある。数年ぶりに目にした枝ぶりは、花も散り終えようとしているのにため息を吐きたくなるほど見事だった。枝先に数枚の花弁を残し、萌黄色の葉が景色に溶け込んでいる。満開よりもよほど美しい。


 汐の中学にも同じくらいの大きさのソメイヨシノが植わっていた。彼が鮮明に思い出すのは、入学式の記念撮影の時のことだ。写真館の男が「ハイチーズ」と口にした直後、ピィピィと鳴き声が響き渡った。汐のすぐ目の前にあった平尾のゴマ塩頭が上を向いた。

「ヒヨドリか」

 穏やかな声が、汐の耳に残っている。

 翌年の春、学校の桜は入学式を待たず満開となった。汐は桜の下でヒヨドリの声を聞き、自転車にまたがったまま平尾のことを考えた。平尾はすでに学校から去った後だった。

 家族介護のため、と終業式の壇上で平尾は言った。二年も持ち上がりで平尾が担任になるのだろうと考えていた汐は、同じように戸惑うクラスメイトと顔を見合わせた。平尾は体育館の後ろの扉にまっすぐ目を向けていた。担任にも家族があるという当たり前のことを、この頃の汐はうまく心の内で処理することができなかった。

 何糞

 と、平尾が黒板に書いたのが何の授業だったのか、汐はハッキリと思い出せない。机には教科書も何も並んでいなかった。窓の外は雪が降っていて、ガラスは結露で真っ白だった。

「歯を食いしばって運命に抗え」

 熱っぽく語る平尾は、教え子が「糞」という言葉でニヤつくことなど承知していた。目論見どおりなのか、「何糞」の文字は長く汐の脳裏に焼き付いている。

 たった一年の関わりだったが、汐はその後十数年に渡って年賀状を欠かさず送った。書き添える言葉を探しながら、毎年のように心の中で平尾に尋ねた。

 ――先生は、運命に抗ったのですか。

 平尾の死を知ったのは年末に届いた喪中はがきだった。平成◯◯年七月二十六日に逝去。平尾の死からその事実を知るまでの数ヶ月、すでにこの世にいないはずの平尾は汐の心の中では生きていた。そのことに虚しさを覚えた。永遠にその死を知らずに、胸の内で生きていてくれればとも思った。

 運命に抗ったのか。
 その問いはもう本人にぶつけることができない。


 桜の根本に数カ所、白いものがこびりついているのが見えた。それが紙垂だと気づき、昨日が集落の春祭りだったことを汐は思い出した。

 車には今朝までマンションに残していたわずかな荷物と、とりあえず土産のようなものが積んである。実家へ戻ると決めてから、過去を精算するため多くのものを捨てた。

 事業を一緒にしようと熱っぽく語った友人の顔は、汐にとっては苦い記憶に変わっている。起業という言葉は、当時の汐に眩い未来を見せてくれた。

 失敗したのか。自問して「失敗だ」と答えるのは汐の中の常識的な部分で、どこかでそれを認められずにいる。

 道路脇から何かが飛び出し、汐は慌ててブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴をあげ、桜の木のちょうど真横で車は止まった。一匹の猫が剥製のように固まっている。

 白と茶の斑の毛はごわごわと硬そうで、片耳は歪に欠けていた。汚れ具合は野良のようだが、尻尾には朱色のリボンが蝶々結びにされている。

 汐はバックミラーに目をやり、後続車が来ないことを確認してドアを開けた。すると、呪縛が解けたように猫はしなやかに身を翻し、桜の木の陰に隠れた。伺うように顔だけのぞかせる。

「茜」

 と、汐は呼びかけていた。猫の尻尾に結わえられたリボンが、同じ集落で育った茜という少女を思い出させた。

 校則でリボンは黒か紺と決められていて、茜が朱色のリボンしていたのは休みの日。自転車で女友達の家へ向かう茜の姿を汐は何度も目にした。ポニーテールの髪が、朱色のリボンと一緒に揺れていた。

 何度か声をかけようとした記憶はあった。何か話したかったわけでもなく、好きだとか嫌いだとか、そういうことでもなかった。小学校の頃は「どこいくの」と躊躇いなく声をかけていたが、いつの間にか互いを名字で呼ぶようになり、家の近くで顔を合わせても「あっ」と声を漏らすだけになっていた。

 ただ、春祭りの日だけは特別だった。変に避けようものなら大人たちから「色気づいて」とからかわれる。当たり障りない会話をしながら、居心地の悪さを感じているのが自分だけではないと確認するために、汐は茜の隣にいた。

「茜」

 二度目に声をかけると、猫はアッという間に道の先の電柱まで駆けていった。立ち止まり、さながら見返り美人のように振り返る。汐が手を振ると、のんびり農道を歩いて行った。
 
 車に乗り込んだ汐は、橋を渡らず国道に出た。窓から潮風が吹き込んでくる。道沿いのコンビニに車を停め、義理立て程度の飲み物を店で買うと、十メートルほど先の歩道橋へと足を向けた。

 階段を上り、歩道橋を渡る。潮風は塊となって吹きつけ、汐は細めた目の隙間から海原を眺めた。白波がそこかしこで立ち上がり、風がゴウゴウと鼓膜を震わせる。ザン、と波の音が聞こえた。

 大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて さけて散るかも(※)

 平尾の書いた文字が、くっきりと汐の頭に浮かんだ。海の近くに住んでいるのだから、これくらいは覚えておけ。そう言って暗唱させられた和歌の中に、その歌もあった。

 砂浜の端に、切り立った岩場がある。剥き出しの岩肌を沿うように、飛沫となった波が空に向かって白く散った。その岩場の裏を回り込むように国道はカーブを描いている。道路沿いに進んだ先には小さな浜があり、波の穏やかな時期であれば岩場を伝って二つの浜を行き来することができた。平尾の言う「鯖威張る」――サバイバルだ。

 中一の、夏休みに入ったばかりの七月の終わり。汐の部活顧問でもあった平尾は、朝練を海でやると言った。

「サバイバルするぞ」

 半ば遊び気分で朝五時に集合すると、自主参加したらしい部外者が何人かいて、その中に茜の姿もあった。平尾は容赦なく全員に走り込みをさせたが、茜は途中でいなくなり、ふと気づくと歩道橋の上でひとり海を眺めていた。サバイバルの時にはいつの間にか戻っていて、数人の女子とキャアキャア笑いながら岩場を進んだ。汐は朝練のあいだ茜の姿を何度も探したけれど、言葉を交わすことはなかった。
 
 ザン、という波音が叫びに聞こえた。

 ザン……! わぁぁぁぁ……!
 ザン……! あぁぁぁぁぁぁ……!
 
 歩道橋の下に自転車が停まっていて、よく見ると岩場近くに人影があった。風に煽られた髪は乱れ、柔らかな曲線で描かれる肢体は仁王立ちに海に向かっていた。汐はその姿に惹かれるように階段を降り、砂浜に足を踏み入れた。

 もう、やだぁぁぁぁぁ……!

 波音は女の叫びをほとんど覆い隠していたけれど、辛うじて汐の耳に届いた。

 なにあれ。汐の背後で数人分の笑い声と足音が聞こえ、遠ざかっていった。そのあいだ、汐はじっと女の背を見ていた。叫び声が途絶えて波音だけになっても、汐は動けないままだった。

 憑き物が落ちたように女の肩から力が抜け、女は乱れた髪を梳きながらくるりと海に背を向けた。脱ぎ捨てていた靴を指先に引っかけ、俯いたまま一歩一歩汐の方へ近づいて来る。

「茜ちゃん」

 顔を上げた茜は訝るように汐の顔を凝視し、やがて「ああ」と気の抜けた声を漏らした。

「汐君。こんなところで何してるの?」

 愛想笑いを浮かべるでもなく、返事すら求めていないように、茜は汐の横を通り過ぎようとする。汐は橋の袂の桜になった気がした。過去へ向かう岐路に佇む、散り際の桜。茜は汐の姿を認めつつ、何もなかったように立ち去ろうとしている。

 茜の後を追い、歩道橋を数段上ったところで声をかけた。

「茜ちゃん、猫、知ってる? 赤いリボンの」

 振り返った茜が、そのまま走り去ってしまうのではないかと汐は思った。けれど茜は恥ずかしそうに顔をそむけたまま、ゆっくりと階段をのぼっていく。

「さっきの、見なかったことにしてよね」
 
 汐が隣に並ぶと、茜はボソッと呟いた。念押しするようにもう一度「見なかったことにして」と強い口調で言うと、手すりに肘をおいて水平線をながめる。空は白く霞んだ曇り空で、海の色も鈍い灰色だった。

 汐はチラと茜の横顔をうかがったあと、大きく息を吸い込んだ。

 しるかぁぁぁぁぁぁ……!

 肺からすっかり空気を出し切った汐は、腹のあたりから笑いがこみ上げてくるのを感じた。「ははっ」と声に漏らす。茜は呆然と汐を見つめ、目が合うと「へんなの」と笑った。

「人生サバイバルだよね」

 茜も平尾を思い出しているようだった。

「平尾先生、去年亡くなったらしいよ」

 汐が告げると、茜は「そっか」とひとつため息を漏らした。

「平尾先生は、運命に抗ったのかな?」

 汐が聞くと、茜は疑問を差し挟むことなく「どうだろうね」と返す。その反応があまりにも茜らしく、汐はまた「ははっ」と笑い声をもらした。

「そろそろ帰らないと」

 背を向けた茜は、一気に階段を駆け下りると歩道橋の下の自転車にまたがった。

「茜ちゃん! またね」

 汐を見上げ、茜は大きく手を振った。

 自転車で走り去る茜の髪は、海風に煽られ奔放に毛先を散らしている。解放されたようにも、翻弄されているようにも見えるその姿に、汐はまた平尾の文字を思い浮かべ、小さく「何糞」と呟いた。

〈了〉
※「金槐和歌集」源実朝

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