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掌編小説/潮目


 境目というのは案外はっきりと見えるものなのかもしれません。

 海岸沿いに車を走らせ、展望台でひと休みしたときでした。潮目は恐ろしいほどに海を別ち、頒かたれた両側の海は鬩ぎ合うようにゆらゆらと揺れ、ところどころに白くさざ波が立ち、沖側のそれは世のすべてを飲み込むような深い色をしておりました。

 境目は、境目それだけでは存在できぬもの。あってなきが如く、名前はあれど境目をこの手に掬うことはできぬのでございます。

 あちら側の潮とこちらがわの潮、両手で掬ってそこにあるのは混じり合った海の水。あちら側ほど冷たくもなく、こちら側ほどあたたかくもない。あちらとこちらという区別そのものが消え失せてしまうのです。

 はてさて、では私とあの方との境目とは一体どんなものであったかとふと考えるのでございます。

 出会った当初私たちのあいだには境目など存在せず、どちらかと言えば同じ潮のなかに生きていたように思います。今思えば、それはNという共通の敵がいたからこそでございましょう。

 私はNに対してあまり良い感情を持ってはおりませんでした。あの方も少なからず不信感を抱いていたようで、あるときNとあの方とのあいだに明確な亀裂が生まれました。あの方の口から発せられるNに対する不満に私は何度も深く頷き、そんなふうにして私とあの方との距離は少しずつ近づいていったのでございます。

 距離というのも不思議なもので、離れているうちは寛容でいられるものを、近づけば近づくほど互いの差異が目につくようになってくる。趣味の違い、考え方のズレ。Nとの接触はとうの昔に切れておりましたから、次第に浮き彫りになるのは私とあの方との相違点ばかりでございました。

 私もあの方も海の水ではございませんし、双方掬って相合わせるなんてことができるほど大人ではなかった。そうして共通の知人を板挟みにしてしまったでございます。

 いたたまれなくなった私はあの方とも知人とも距離を置こうと心に決めました。いえ、はっきり申しましょう。私のなかに生まれたあの方への嫌悪はもう隠しようもありませんでした。

 離れてしまえば境目は消え失せてしまう。けれど、そういった考え方にも私とあの方との差が生まれました。どうやらあの方は違いを浮き彫りにすることを望んでいるようでございました。そう、いなくなってしまったNの代わりに、私があの方の敵にならなければいけなかった。そうすることで、あの方は自分と世界の境目、すなわちあの方自身の姿形を浮き彫りにしようとしたのかもしれません。

 例えば私があの方と同じような性質の持ち主であったならば、そこには”好敵手”とでもいう関係が構築され得たのかもしれません。けれど、私にはあの方と競う気はありませんでした。のらりくらりと躱しながら、愛想笑いでごまかし続けていました。

 そもそも違う考え方、違う場所を求める者同士です。競ったところで誰も優劣などつけられません。いえ、つけられるのでしょうが、私は何かしらの基準でもってつけられたその優劣に、どんな結果であれ納得することはできない。

 あの方との関係が裏返った、その境目がいつだったのか。一度で180度変わってしまったわけではありません。少しずつ、闇の中で手探りに壁を伝うように、私はあの方との境目を確認し、その都度あの方は壁の向こう側から手を伸ばし、あの方にとっての”あるべき世界”に引き込もうとしました。けれど、そこは私の生きたい世界ではございませんでした。

 私が曖昧な拒絶を繰り返し、そのうち焦れたあの方は手ではなくナイフをこちらに向けるようになりました。空を切った刃は私の身を掠り、ある時まったく関わりのない人間を傷つけたのでございます。

 そう、境目がくっきりと私の前に立ち上がったのはこの時。

 それは境目などではなくすでに亀裂だったのでございましょう。私はその底知れない割れ目の闇にのまれぬよう、身を翻し、ひたすらに走って逃げたのでございます。

 走って、走って、走って。あの方の声が聞こえないようずっと耳を塞いでおりました。

 けれど、私はこうしてまた壁の前に戻ってきてしまった。そこに手を触れ、そうして自分自身と世界との境目を確認するのです。そうしなければ世界はあまりにも茫洋として、自分の姿形をはっきりと捉えることができません。それは酷く不安を掻き立てるものでございます。

 思えば私がNを嫌ったのも、自身と似たNとの違いを探り、自らの形を確認しようとしていたのかもしれません。あの方との関わりもまた然り。

 Nはどうしているのでしょう。

 あの方は。

 けれど、私はいつまでも壁際に佇んでいるわけにはまいりません。昔を懐かしむのは今だけにして、そろそろ水を掬わねばなりません。そう、境目の水を掬うのです。

 掬った瞬間境目は消失し、世界はつながり、壁は払われる。そうして私の姿形も消え失せてしまえばいいと、今はそんなふうにも思っているのでございます。

――end


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