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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #30

)クジラリンク(マリンスノー


30. 大人たちの会話


「……る、……波留。お風呂入っちゃいなさい。あとは波留だけだから」

 揺り起こされて重い瞼を持ち上げると、目の前に那波の顔があった。

「もう一時半になるよ」

「一時、半……?」

「そうよ。うたた寝してないで早く行きなさい」

 眩しそうに目をこする波留の足をポンと叩き、那波は部屋を出ていった。波留はベッドに体を起こし、働かない頭で今の自分がどういう状況におかれているのか考える。

 海斗の言っていた「ブックマーク」が使えるかどうか試そうとして、スノードームを頭に描きながら夜次元クジラに飲まれたのはまだ日付が変わる前だった。たどりついたのはシンの部屋、そこで見た時計は一時半。そのあとシンと四次元散歩をし、微睡の海に流されて三次元に戻って来たけれど四次元散歩後の疲労がいつにもまして酷く、ベッドに転がっていたらそのまま眠ってしまったようだ。

 シンの部屋で聞いた彼の言葉を信じるなら、波留がシンの部屋を訪れたのはちょうど今、午前一時半ということになる。たった今この瞬間、寝ぼけたシンは自分のベッドの中で波留と夜次元クジラの姿を見ているのだ。本当にそうならこうしてここにある意識はなんなのか――そんなことを考えていると、得体の知れない不安が波留の胸に湧き上がってきた。

 不安は体調不良のせいかもしれない。けれど、異常な倦怠感の他にも気になることがあった。

 これまでの四次元散歩では離れる時の座標と戻る時の座標とが一致しており、四次元に行っているあいだ三次元の時は進まず、意識は散歩を始めた場所、時刻にちゃんと帰ることができていた。それが、今回は戻ってみると時間が十分ほど経過し、時計は零時をまわって次の日になっていた上に、経験していないはずの十分間の記憶が波留の頭の中にあったのだ。四次元散歩に行っているあいだ、三次元の波留はヨガマットから立ちあがり、WIZMEEウィズミーを手にベッドの上に移動している。

 考えれば考えるほどおかしなことばかりだった。波留の意識は姿形をとって質量のない幽霊のような状態になり、自分でもそれを視認できたし、シンにもその姿を見られた。さらに彼も同じように幽霊なって、一緒に四次元散歩をし、彼の対話者である微睡の海にのまれた。

「もしかして、全部夢なのかな」

 夜次元クジラが見えるようになって以来、自分の頭がおかしくなったのかもしれないと波留は心の片隅で思っている。心療内科に行くべきかと悩んだこともあったけれど、カウンセリングを受けて夜次元クジラが消えてしまったらと考えるとなかなか足が向かなかった。クジラが見えることは誰にも言っていない。四次元や対話者のことをシンに話したのは、彼が夢だと勘違いしていたからだ。

 もしかしたら正しいのはシンかもしれない。今見ているのも夢、さっき一緒に四次元散歩したのも夢。波留だけが長い長い夢の中に生きている。もしそうだとしたら、抜け出したいと思っている三次元こそが幻で、目を開ければ四次元の世界が広がっている?

 頭がこんがらがりそうだった。

「僕の人生が夢オチだったらウケる」

 ベッドに仰向けのまま、ひとり苦笑して目を閉じた。瞼の裏に訪れる闇は夜次元クジラの口よりもずっと明るい。そういえば、と波留は思った。

 そういえば、四次元散歩で自分と関わりのない場所に行ったのも今回が初めてだった。いかにも夏祭りといった風情ある屋台や提灯、神社に鳥居、浴衣姿であふれる参道。それが、自分の妄想でないと言い切れる自信がない。海斗と森谷のことも、自分がつくりあげた妄想なのではと思えてくる。当時中学三年だった海斗と、まだ二十代とはいえれっきとした教師の森谷。この二人の間に何かあったと考えるほうが馬鹿げている。

 ――夢に見るくらい、波留が好きなんだと思う。

 シンの言葉が脳裏に蘇った。

「そんなはずない」

 ベッドから立ち上がると、うたた寝する前につけていたWIZMEEがゴトンと音をたてて床に落ちた。四次元散歩から戻ったあと、絵本の『夜次元クジラ』を久しぶりに開いてみたのだった。

 WIZMEEの電源をオフにして部屋を出ると、階下から話し声が聞こえてきた。大人たち三人はまだリビングにいるらしく、波留は足音を忍ばせて階段を下りると、そっとドアに近づいた。

「学校もちゃんと行ってるし、友達とも仲良くやってるみたい」那波の声だった。

 授業を抜け出して金魚部屋や保健室で過ごしていることを、波留は那波に黙ったままでいる。折を見て話すつもりでいたけれど、田辺が現れて以来、那波に何をどこまで話したらいいのか分からなくなってしまった。

「そうは言っても男の子二人いる部屋に女の子一人は心配だよ。田辺さんもそう思いませんか?」

 いくぶん語気が荒いのは克樹叔父だ。

「心配は心配ですけど、波留ちゃんを縛るようなことはあまりしたくないんです。そもそも私は今のところ波留ちゃんにとって赤の他人ですし、何を言える立場にもないんですが」

「赤の他人だなんて」

 那波の媚びるような声音に、廊下で息を潜める波留は奥歯を噛みしめた。

「波留だって私たちの結婚には賛成するって言ってくれたじゃない。波留にとっても、私だけより父親がいた方が絶対いい。せっかく転校して環境を変えたんだから、もう親のことで虐められてほしくない」

 三人のため息と一緒に椅子の軋みが聞こえ、波留は壁際に体を寄せた。「確かめておきたいんだけど」と克樹が言う。

「那波姉さんは波留のために田辺さんと結婚するわけじゃないんだよね。正直なところ、田辺さんとの結婚の話を聞いて僕としては複雑だったんだ。留里さんは実家と縁を切って姉さんと結婚した。そして波留を産んだ。姉さんが一人で波留を育てるのは大変だろうと思ったし、再婚相手がいたらいいとも思った。でも、姉さんが男と結婚したいと言うなんて想像してなかったから、父さんと母さんも半信半疑なんだよ」

 リビングに沈黙が落ち、波留はこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。けれど、指先が震えるばかりで体は思うように動いてくれない。

「本当のことを言うと思うか?」

 ぬっと背後から夜次元クジラが現れ、波留が驚いて身を引いたとき壁に肘がぶつかってドンと音をたてた。

「波留?」

 克樹の声がし、波留は慌ててお風呂場に駆け込んだ。


次回/31.悪夢

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


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