短編小説『サンクゴースト』全文無料
1.
「また来てね」
小さく手を振って店を出ていく知佳に、私はマスク越しに控えめな声をかけた。三歳の息子を連れた彼女の手には、『つばめカフェ』で販売しているサンドイッチがある。
カフェといっても私と従業員一人の小さな店だった。以前はもう一人アルバイトがいたけれど、新型コロナウィルスのせいで辞めてしまった。
パンデミック前に昼と夜で半々くらいだった売上は、最初の緊急事態宣言で夜の売上がゼロになり、昼の売上も以前の半分以下になった。一旦夜は閉めることにし、就業時間を減らした分は助成金でまかなった。
もともと営業が順調だったわけではない。移転してから客がじわじわ離れていくのが数字にも現れていた。元の店からほんの百メートルほどしか離れていないのに。
いわくつきの場所ではないけれど、お祓いをしておくべきだっただろうかと考えたりする。けれど、理由はもっと現実的だった。昼休憩の時間がギリギリになるとか、駅と反対方向になるとか。
テイクアウトをしてみようかと考えたことはあった。新型コロナウィルスという危機に直面するまで実行に移さなかったのは、どこか楽観視していたからだ。借金があるといっても親に百五十万ほどで、切羽詰まっていたわけではない。
「飲食店って大変なんでしょ。テイクアウトしないの? ほら、最近テレビでもよく見るし」
専業主婦の知佳は、私の店が夜閉めているのを知って電話をかけてきた。
「テイクアウトは前からやりたかったんだけどね」
「やったほうがいいよ。つばめカフェ行きたいけど今は行きづらいし、でも千早の料理食べないとあたし禁断症状になる」
「じゃあ、始めてみようかな」
保健所にはその場で作って渡すのであれば今持っている営業許可証で問題ないと言われたが、売ったものをいつ食べてもらえるか分からないのは怖かった。それで、腐りにくそうなサンドイッチをテイクアウトすることにした。
2.
とにかく手を動かしていれば気が紛れる。夜になると厨房の電気だけをつけて一人で仕込みをしながら、スマートフォンでコロナのニュースを流し、不安に押し潰されそうになったらユーチューブの芸人チャンネルに変えた。
薄暗い店内は、席を半分に減らしたからスカスカだった。不意にユーチューブの接続が切れてシンとなると、天井の軋みにドキッとする。
頭の中で「いない」が「いる」に裏返って、錯覚したのが幽霊じゃないか。緑の光が瞼の裏に残ったとき赤く光るように、「いない」のに「いる」を感じるのかも。そんなことを考えながら、私の手はちゃんと作業を進める。仕込みが終わったら助成金の申請書類。
運動量が減ったせいか、ストレスのせいか、布団に入っても眠れない日が続いて睡眠導入剤を処方してもらった。たまに、知佳からラインが来る。
「お店の調子はどう?」
「あいかわらずぼちぼち」
「大変だね。そういえば聞いてよ」
そのあとのやりとりこそ知佳が求めているものだった。保育園や旦那、姑の愚痴。身近な人の衛生観念の低さがかなりストレスになっているようだ。
旦那の稼ぎで食べていけるなんて私からすればうらやましい身分。けれど、彼女は彼女で大変なのだろうと思う。むしろ、大変であってほしかった。そうすれば、まだ彼女と友だちでいられる。
一人ぼっちの寂しさを知佳にこぼすことはできなかった。「千早も早くいい人が見つかればいいね」という、以前かけられた言葉が頭を過る。私は「寝れば嫌なこと忘れるし、睡眠が一番のストレス解消」なんて嘯いている。睡眠薬がなければ眠れやしないのに。
知佳は変わらず店に顔を出してくれている。彼女は幻でも幽霊でもなく、紛れもない私の友だちだ。
3.
テイクアウト用の容器が品薄でなかなか手に入らず、サンドイッチの販売を始めたのは五月の連休明けだった。テイクアウトを始めるのにも助成金が出る。事務手続きは増えるけれど正直ありがたかった。細々と続けているSNSで、テイクアウトを知ったお客さんたちが買いに来てくれた。
「がんばってね」「つばめさんがなくなったら困るから」
励ましの言葉をかけてくれる人の中には初めて来店したお客さんも多くいて、そのほとんどがテイクアウト一度きりだった。頭の中に毒づく私がいる。それを押さえ込むように「感謝しないと」と唱える。
助けてもらわないと店を続けられない私って一体なんなんだろう。突き返された助成金の書類を直しながら考える。
母親から「店続けるの?」と電話があった。別にお金のことはいいから、もともと千早の結婚資金に貯めてたものだし、と。
最近、深夜の店に一人ぼっちで倒れている自分の姿が頭に浮かぶ。お客さんと冗談を言い合った日々が遠のいて意識の奥底に沈んでいく。
息苦しいと医者に訴えたら、体は問題ないので深刻に考えすぎないようにといつもの薬を出されただけだった。閑古鳥が鳴き続ける日々。アルバイト君が辞めたいと言ったとき、とどめを刺された気がした。
「今後のことを考えると不安で。働いてないのに以前と同じような給料もらってるのも申し訳ないし」
「助成金なんだから、もらえるものはもらっとけばいいって」
「ありがたいんですけど、コロナ、いつ終わるかわからないじゃないですか。コロナ終わってもこれまで通りにはいかないだろうし、他に資格とかとったほうがいいのかな、とか」
引き留めたら、彼の未来を潰してしまいそうな気がした。
「わかった。辞めても気軽に顔出してね」
「千早さんの料理好きなんで食べに来ます。サンドイッチも買いに来ます」
彼がサンドイッチを買いに来たのは二回。あれ以来店で食べたことは一度もない。
私は少しだけほっとしていた。店を潰すまでズルズル先延ばしして解雇を言い出せないような気がしていたからだ。
「しばらく二人でやっていこうと思う」
残った従業員の久保君に言うと、「コロナだし、仕方ないですね」とだけ返ってきた。私もそれ以上言わなかった。
4.
知佳は週に一、二度店に顔を出す。その日は緑と黒の市松模様のマスク姿で、彼女の息子も同じ柄のマスクをしていた。
「映画観てきたよ」
「人多かった?」
「全然。田舎だし、平日だしね。千早は? 店の方は最近どう?」
「マシになってきたかな。夜も週三回だけど開けるようにしたし、このまま感染収まってくれたらいいのに」
その願いが叶うことはなく、生殺しの状態で二〇二〇年は過ぎていった。
廃業という言葉が毎日頭を掠める。イタリアンの店を経営している知人は、かなりの額の融資を受けたようだった。子どもが三人いて、借りたお金は生活費に消えてしまうとこぼしていた。
「やめたくなりますよね」と、冗談めかして聞いた。
「考えるけどね、でもやめたら腕が鈍る気がして怖いんよ。耐えれるとこまで耐えて、コロナとの我慢勝負。俺には料理しかないけん」
今が土壇場だけん踏ん張らんと、と彼は笑っていた。私は土壇場に立っているのだろうか。母親の言葉に甘え、ここ数ヶ月借金の返済は先延ばしにしてもらっている。
つばめカフェと同時期にオープンしたカフェが閉店したという噂を出入りの業者から聞いて、なんとなく気持ちが軽くなった。自分だけじゃない、時代が悪いから、だって世界的なパンデミックだから。
5.
「旦那が陽性になった。私も明日PCR受けるから、もし陽性だったらごめん」
知佳からのラインが来たのはオリンピックが一ヶ月後に迫った二〇二一年の六月末。「ごめん」の意味を考えると背筋がゾッとする。知佳が最後に店に来たのは一昨日。もし陽性だったら、私もPCR検査を受けることになるのだろうか。店の営業は? 保健所が店に来たりするのだろうか。
気が気でなく、翌日は臨時休業にした。知佳から電話が来たのは夕方だ。
「陰性だった。でもしばらく自宅待機」
「旦那さんは?」
「今のところ微熱だけみたい。千早、うちの旦那が感染したこと内緒にしといてね」
「うん、言わない」
電話を切って、厨房の隅で一人ため息をついた。危機感は持っていたつもりなのに、心の準備がまったくできていなかったことに気づいた。
アルコール消毒液を手に、誰もいない店内を隅から隅まで拭き上げていく。おいしいものを、の前に、安心安全、感染拡大防止に全力を。当たり前の衛生管理が重苦しく肩にのしかかってくる。預金通帳の残高はずいぶん減っていた。衛生用品代もばかにならない。
この一年半、どれだけの食材をゴミ箱に捨てただろう。消耗して廃棄して、私はその分を社会に返せただろうか。
「諸事情により、二、三日お休みをいただきます」
店のドアに張り紙をして、久保君には休業手当を出すからお休みしてくださいと電話を入れて、家に帰ると着替えもせずベッドに突っ伏した。
処方箋袋をカバンから取り出して錠剤を口に放り込み、水で飲み込んだあとテレビをつける。
「感染者数は抑えられています」「オリンピックは中止すべきとお考えですか」「給付とセットじゃないと」「ワクチン接種が他国に比べて」
処方箋袋をひっくり返し、シートから立て続けに薬をプチプチと押し出した。手の上に六粒の白い錠剤を乗せて眺め、たったこれだけじゃ死ねないだろうと思う。どうせ死ぬ気なんてないのに。そのうち六粒の錠剤は涙でぼんやり滲んで、ポロポロと手のひらから落ちていった。
「死ぬくらいならやめればいいのに」
いつだったか、ブラック企業の社員が自殺したというニュースを見て、テレビに向かって言った。
「死ぬくらいなら、」
口にしようとしたら声が震え、そのまま突っ伏して声を上げて泣いた。どれくらい泣いていたのか、泣きつかれて顔をあげ、ベッドの上に落ちた薬を拾ってピルケースにしまった。
野菜室からキャベツ半玉を出してきて黙々と千切りにした。これ以上ないくらい細く、フワフワの千切りキャベツを作った。「俺には料理しかないけん」という知人の声が頭の中をぐるぐる回っている。
スマートフォンが鳴り、画面を見ると知佳からだった。
6.
「もしもし千早? お店休むみたいって友達から聞いたんだけど、もしかして私のせい?」
「ううん、全然。ちょっと疲れちゃったからサボり」
「そっか。大変だったもんね、この一年半」
「うん。なんかもうやめちゃいたい」
少し間があって「それも仕方ないのか」と知佳は口にした。そのあと「私もね」と続ける。どんな時でも、知佳がするのは知佳の話だ。
「旦那と離婚しようかと思って」
「えっ?」
予想外の言葉だった。
「外から帰ってきても手洗いしないし、咳するときは口を塞いでって言ってるのにコロナ扱いするなとか言って、全然話にならないの。なんか価値観違いすぎて。今回のことで反省してくれたらいいけど、もし変わらないようなら離婚するかも」
「実家に戻るの?」
「分かんないけど、これ以上ストレス溜まったら息子に八つ当たりしちゃいそうで怖いんだ」
「旦那さん、改心してくれるといいね」
私が言うと、知佳は半分諦めたような乾いた声で笑った。
「いっそ改心しないでくれたら踏ん切りがつくのに。結局ズルズル一緒にいるような気もする」
スピーカーから子どもの声が聞こえて、「またかける」と彼女は慌ただしく電話を切った。
私も知佳も、沈みゆく船に乗っているのかもしれない。踏ん切りがつかないまま、馴染みある景色に幽霊を見て、船に留まる理由を探している。
7.
「店、やめないですよね」と、二日ぶりに顔を合わせた久保君に言われた。
「そっちこそ、辞めたくならない? 」
「辞めてもどうしようって感じです。経営厳しいの知ってますから、申し訳ないなぁと思いつつ」
「辞めてなんて言わないけど、店、限界来たらごめんね」
「なんか悔しいですね。つばめカフェ、せっかく十年もやって来たのに」
彼の言い方に思わず笑った。
「なんか、オリンピック選手みたい。せっかく今までやってきたのにって」
「じゃあ、一花咲かせるまでやめれませんね」
表舞台で活躍するのは一握りの選ばれた人たち。幽霊に引きずり込まれるように、みんな静かに沈んでいくのだ。もしかしたら、花は密かに咲いていたのかもしれないけれど。
ふと思いついて「お祓いしてみようか」と言うと、非科学的ですね、と久保君は呆れ顔で私を見た。マスクの内側は笑っているだろうか。
二人でいつも通り仕込みをする。明日のサンドイッチの材料が、着々と冷蔵庫を埋めていく。
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