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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #20
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20. 共食い金魚
「明日から連休に入るけど、行きたい高校が決まってる人もそうでない人も、気になる学校があったら休みのあいだにリサーチしてみてください」
ゴールデンウィーク直前の最後の登校日、森谷はそう言って受験生向け情報サイトをいくつか紹介した。
シンはタブレットでサイトにアクセスし、検索窓に『調理』と入力してみると該当件数は三桁、近畿州内に範囲を絞り込むと二桁になり、現在地から半径三十キロに設定すると『該当する学校はありません』と出た。その文字の下にある『専門学校情報を表示する』をタップすると、調理専門学校と栄養ビジネススクールの二件が表示される。
「やっぱりシンは槇村シェフになるんだ」
隣の席の男子がシンのタブレットをのぞきこみ、ホームルーム中の教室にその声が響いた。
「試しに検索しただけ。お前こそどこ受けるんだよ」
あとでゆっくり調べて下さい、と森谷が会話を遮ってその場のやりとりは終わったが、「店を継ぐの?」と波留が聞いてきたのは放課後の金魚部屋でのことだ。
先日の夜の海での一件から、シンは恥ずかしさで波留の顔をまともに見ることができないのに、波留の態度は何ひとつ変わらない。
体温が伝わるほど間近にあった波留の横顔と、触れてしまいそうな距離。シンは今でも心臓がドキドキと高鳴り、声が上ずりそうになるのを懸命に抑えている。波留はいつも通りくつろいだ様子で椅子に座り、鉛筆を手にスケッチブックを広げていた。
「シン、CONAで料理のバイトしてるんだよね。海斗が言ってた」
「あれはバイトっていうより手伝い。勇さんには世話になってるし」
「勇さん?」
「海斗の父親」
ああ、と波留は納得したようにうなずいているが鉛筆を動かす手は止まらず、シンは彼女の斜め後ろに椅子を移動してその手元をながめた。実際は手元よりも波留の横顔を見つめている時間の方が長い。
「今朝、その勇さんって人がサーフィンしてるとこ初めて見た。僕は素人だけど、上手いんだろうなって見てて思った」
「波留、今朝海行ったの?」
「うん。シンが帰ったあと」
「なんで」
「なんとなく。海に行きたいって言ったのはあの人だし、シンが海にいるのは知ってたし」
「あの人って、波留の父親になりがたがってるっていう人?」
波留の手が止まり、「うん」とぎこちなくうなずく。
「あの人、波留の家で暮らしてるの?」
波留はため息をつくと、手を止めてスケッチブックの上に鉛筆を放り出した。ギィーと音をさせて椅子を百八十度回すと、行儀悪く両足の踵を机の上にのせる。
「波留は、その人が嫌で放課後ここにいるの?」
また波留の機嫌を損ねてしまうのではないかと、シンは内心ビクビクしていた。波留は「別に」と冷めた声で言う。
「シンが遅くまでCONAに入り浸ってるのは、家が嫌だから?」
一瞬言葉に詰まったけれど、シンが「そうかも」と答えると、波留は意外そうに目を見開いた。
「店継ぐのに、家が嫌なんだ」
「店継ぐって言ってたのは小学校の頃。冷静に考えたら親父みたいになりたいと思えなくなった」
「父親が嫌い?」
「全部嫌いってわけじゃない。でも、身近にいるからこそ嫌なことってあるだろ」
「たしかにそうかもね」
波留は机から足をおろすとスケッチブックを置いて金魚鉢の方へ歩いて行き、前屈みになって出目金の隠れている水草の陰をのぞきこんだ。
「金魚も離してやった方が幸せなのかもしれない。また出目金の尾ビレがかじられてる。お前は自分じゃ逃げ出せないんだよね、かわいそうに」
波留は出目金をなでるような手つきで金魚鉢に手を這わせた。
シンは机の上に取り残されたスケッチブックに手を伸ばし、波留の描いた絵をながめる。正面から見ると出目金は金魚鉢の外側を泳いでいるように見え、前に見た別の絵も同じように感じたことを思い出してページをめくった。そのページの絵も、その前のページも、出目金は金魚鉢の手前に描かれているように見え、自分の見方がおかしいのだろうかと思いながらもう一枚めくると、今度は出目金が金魚鉢の上を泳いでいた。波留が意図して出目金を金魚鉢の外に描いているのは明らかで、そしてなぜか出目金と向かい合うように金魚サイズのクジラが描かれている。手をだらりと垂らしたような大きな胸ビレはザトウクジラだ。海のような広い場所に出目金を出してやりたいという、波留の願望のあらわれなのかもしれない。
「金魚は共食いするんだっけ」
シンが問うと、「食べるんじゃない?」と波留は出目金を指さして言う。
「波留、連休明けたら金魚を別々にする? 先生に相談してみないといけないけど」
波留は「考えたんだけどさ」と改まった口調になった。
「赤い金魚はCONAに引き取ってもらったらどうかな。もともと海斗が金魚すくいでとった金魚なんでしょ? 三年一組で世話すればいいのにそうしないのが不思議だったんだけど、それって森谷先生が海斗の金魚だって思ってるからなんじゃないかと思って」
「たしかに、言われてみればそうかも」
シンは、まだ二年生だった今年の三月のことを思い出した。森谷と海斗と三人で過ごした時間は楽しかったけれど、もし森谷が異動になっていたらこの金魚たちはどうしただろう。シンが来年卒業して、森谷もいなくなったら。そう考えると、波留の提案は名案のような気がする。放っておいても出目金は食い殺されかねないのだ。
「わかった、海斗に聞いてみるよ。でも、金魚って一匹だと寂しくて死んだりしないのかな」
「食われて死ぬよりいい。出目金には森谷先生がいるし」
そのときシンのポケットでスマートフォンが鳴り、確認すると海斗からのMESSEだった。かなりいい波が立っているということだったが、このまま連休に入って波留にしばらく会えなくなると思うと、もう少し話していたい。
「メール?」と、明らかに関心なさそうな顔で波留が聞いた。
「海斗。今から海だって」
「へえ」今度は少し興味が湧いたふうな眼差しで、波留が窓の外に目をやる。
「晴れてきたけど外は肌寒いよね。海の中って冷たくないの?」
「けっこうマシになってきたけど、あとは気合い」
金魚部屋の窓から見える海はあちこちで白波が立ち、あまりいいコンディションには思えなかった。けれど、少し移動すればガラッと表情を変えるのが海だ。
「シンは行かないの?」
いてもいなくても同じと言うような波留の言葉にシンは少し傷つきながら、波留にとってこの金魚部屋だけが一人でくつろげる場所なのかもと思うと長々居座るのも気が引ける。
「俺も行こうかな。海斗に金魚のこと聞いてみとく」
「森谷先生には僕が話すよ。あとで来ると思うから」
「了解。じゃあまた明日」
「うん、また」
波留に見送られて教室を出たものの、連休のあいだ波留がどうしているのか聞いておきたくてシンは金魚部屋に引き返した。
波留はすっかりシンが帰ったものと思っているらしく、スケッチブックを手に机に腰かけ足をプラプラ揺らしている。何か喋っているのが聞こえ、シンは声をかけるタイミングを失った。
「死ぬのは怖くない。痛いのは嫌だけどね」
不穏な言葉にギクリとし、身じろぎもできないまま唾を飲んだ。視界に違和感をおぼえてシンが目を凝らすと、波留の頭から肩甲骨あたりにかけて薄っすらと青みを帯びているように見え、その青みの境界線をたどってみると何かが教室の天井近くに横たわっているようだった。
「ヨジゲンクジラ、四次元に行くってやっぱりそういうことだよね」
波留の声のあとシンの耳に笑い声のような低い振動が伝わり、何かと目が合った気がした。波留が弾かれたように振り返り、その拍子に彼女の膝からスケッチブックが滑り落ちる。
「シン? 帰ったかと思った」
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