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1997年K県Y市の或る日常

 この物語は、1998年頃に僕(シオン)が体験したお話です。会社の同僚に、ホステスさんのいる超高級クラブでバイトをしていた昔話をしたところ思いのほか面白いと言ってもらえて、あの頃の自分のいた場所が光輝いて見えてきました。
 なにせ30年近く前のことで、きっとこのままだと近い将来今よりももっと思い出せなくなってくるだろうと思い、この機会にnoteに残すことにしました。
 僕にとっては、青春が詰まっていて鼻腔が疼く話を、思い出せる範囲で少しの誇張を混ぜて身バレしない程度に綴っていく備忘録的自伝的フィクションのお話になります。基本的には架空の物語として読んでいただけると嬉しいです。実在の人物や団体は関係ありません。

 1998年夏。
「一緒にバイクで日本一周しようぜ」
 僕は大学の友人2人に誘われて、バイクで日本一周の旅に出た。二つ返事で合意し、合宿でバイクの免許を取り、バイクを買い、24日間の旅に出た。安易に借金を負ってしまったことは悔やまれたけど、めちゃくちゃ楽しかった。思い出とともに帰ってきたけれど、その後解消すべき課題は現実的には借金であり、お金を返すことであり、つまりは割の良いバイト探しだった。
 大学の野外音楽堂に座り込んで学部の友人たちと安いランチをするのがいつもの風景で、一緒に日本一周をして借金まみれのはずの小澤くんは、早々に引っ越しや、深夜の道路工事の誘導警備員などの割の良い労働で稼ぎ、なんだか豪華なハンバーガーを食べている。僕はといえば生協でかった100円のサンドイッチを大事に食べていた。そこに工学部棟から手を挙げて寄ってくる友人がいた。
 「シオくんさバイト探してるんでしょ」
 「うん。できるだけ割のいいやつ。万年金欠だしさ」
 「俺のバイト先紹介しよか?1200円だよ。1200円。時給」
彼は1200円を強調した。
 「1200円?マジ!?」
家庭教師以外の大学生バイトで1000円を超えることは稀だった。家庭教師は競争率も高いが、そもそも自分の能力では、たくさんコマを入れて安定した収益にすることは難しい。なにより他人の成績に責任を持つなんてやりたくなかった。平均的なコンビニの時給が730円。深夜で850円程度の時代に1200円は極めて破格で、それだけ過酷な労働が予測された。そういえば、サークルでよく絡んでくれる彼だが、何のバイトしているのかは知らなかった。
 「高すぎん?深夜の道路工事とか?」
僕は、食べ終わったサンドイッチの外袋を鞄に押し込むと、赤のマルボロに火をつけて、いつでも断れるように警戒感を露わにして言った。
 「いやいや。仕事的には楽だよ。あ~でも精神的なところとか、苦手とかはあるかもね。でも、シオくんは真面目だし話してて面白いから大丈夫かなって」
 「話してて面白い?そうかな…」
口下手でそこまでサークルでしゃべってるタイプでない自分は戸惑った。そういうスキルが必要なら役不足じゃないか?
 「僕、面白かったっけ?ていうか面白くないとだめなら僕そのバイトできなくない?」
僕の言葉を聞くや否や彼は笑った。
 「シオくんめっちゃ面白いの自分ではわからないんだ」
 「え?」
 「あと、優しくて面倒見がいい人が向いてると思うんだよね。シオくんみたいな」
 「面倒見…」
面白さにも自信ないのに、さらに面倒見まで…
 「ごめんちょっと僕への評価高すぎない?自信ない」
 「工学部2年から大変になるからシフト入れられなくて、週1でもいいから手伝ってくれる人必要でさ」
なんだ、つまり彼は自分の身代わりが欲しかったのか。だったら変に持ち上げずにそう言ってくれればいいのに。無駄に褒められてしまったな。
仕事が楽である。精神的にはきついかもしれない。得手不得手がある人がいる。僕は、あまり精神的に追い詰められたりはしないタイプだ。嫌なことを我慢したりはスルーするのは得意分野と言っていい。面白いとか面倒見が良いとかが必要なら困るが、我慢強さが求められる仕事なら向いているといっていい。この唐突なオファーに答えるつもりになった。そもそも1200円の魅力に逆らえる貧乏学生なんてそうそういるものだろうか。いやいない。
 「じゃあやってみようかな」
 「やった!それじゃあ今日さ、助けると思って体験入店してくれない?」
 「入店?…今日!?」
今日の突然さにも驚いたが入店という言葉のほうが引っ掛かった。
 「そう。バイト先は高級クラブ。で、俺はそこのウェイターしてる。まあ、店全体のお手伝いって感じ」
「へ?」
「店長への紹介もあるから今日の15時半に駐輪場ね」
彼は悩み顔の僕をよそに畳みかけ一方的にスケジュールを伝えた。すっかり僕が入店すると思って安心しきった顔で「じゃ。またあとで」と言って工学部練へ消えていった。
始業のチャイムがなった。

 待ち合わせの駐輪場には、すでに工学部の彼が待っていて手を振っている。僕が来るや否や笑顔で紙袋を渡してきた。
「はい。これ。と、これ」
「なにこれ?」
「シャツと黒いズボン。で、そっちが黒の革靴。靴下は店の近くで売ってるから大丈夫。洗濯用のスペアの奴とりあえず貸す。あとベストと蝶ネクタイは店の奴使う」
「蝶ネクタイ!?着けたことないんだけど」
「店ついたら教える。敷居の高い店だから身なりは清潔に。シオくん前髪長いから今日はオールバックね。整髪料は全部店にあるから平気」
「うわあ」
「さ、行こ」
言われるがままリュックに詰め込んでバイクにまたがる。
「先導するからついてきて」
エンジンをかけると静かな駐輪場が騒がしくなる。急いでヘルメットを着けると、正門から2台のバイクはみなとみらいに向けて走っていく。僕は見失わないようアクセルを開けた。

 三ッ沢から横浜駅へ向かう曲線を抜けるとランドマークタワーが見える。どうやらバイクは、みなとみらいへ向かっているようだ。
みなとみらい21地区は当時開発が始まったばかりで、ランドマークタワーとアット!、パシフィコ横浜くらいしかまだなかったように思う。
デートと言えば山下公園や海の見える丘公園で自販機のホットドリンクを飲むのほうがなじみがあり、貧乏大学生にとってはロマンチックな夜景や高い場所にあるレストランよりも元町で服を眺めたり、ジョイポリスでわいわいやる程度で十分楽しめた。

 2台のバイクは万年工事中の高架を抜けてS町地区を走り、B町通りから路地を入る。ほどなくして薄暗い駐車場で止まった。
「ここ止めて」
エンジンを切って異様に静まり返る駐車場にバイクを止める。
「ここはあけておいてね。出入口だから」
そういわれて気づいたが、大きめの頑丈なドアがあった。
「そのあたりが従業員が休憩中にたばこ吸うところね。中では従業員はたばこはダメ」
バイクを止めた場所の隣に小さな防火用バケツがおいてあり、皮肉にもたばこの吸い殻が水に浮かんでいた。
「そこ開けて中に入って」

 頑丈に見える扉は、その重そうな見た目に反して信じられないくらい軽く開けることができた。
「面白いでしょ」
「うん。軽くあいた」
「バイトの女の子たちもここから入ってくるからね。入口から入ってきていいのは同伴の女の子だけ」
「同伴って?」
「お客さんと店に入る前に待ち合わせして一緒に入ってくるって感じかな」
「へえ」
「おはようございます!シェフー!店長ー!友達連れてきましたー!」
工学部の彼が時間を気にしない「おはようございます」大きな声を出すと厨房からシェフが、奥からは店長が現れた。
「やー。助かったよ。ありがとうね」
店長は手を差し出すと工学部と握手をし彼の肩をポンポンとたたく。
厨房から出てきたシェフは180センチを超える大男だが愛嬌のあるように見えた、しかしメガネの裏に覗く目つきは鋭いように思えた。店長は小柄で薄っぺらい笑顔を顔の上にシールで張ったような顔をしていた。
洗濯された真っ白なコックスーツはパリッと仕上がっており、店長のブラックのスーツは貧乏学生でそういった知識のない僕からしてみても仕立ての良さを感じた。
「名前は」
シェフに尋ねられる。
「シオンと言います。工学部の彼とは同じサークルの仲間で」
「ふーん。ラルクアンシエル知ってる」
「え、はい。名前くらいは。まだ虹のシングルくらいしか聴いたことはないんですけど詩がいいですよね」
「わかってるね~俺も好きなんだよ。これ貸すから。最高だからアルバム聴いてきて感想きかせて」
「あ、はい」
鞄にラルクアンシエルのアルバム『HEART』を受け取って入れた。よほど話したかったのか、まだ物足りなそうなシェフに店長が割って入る。長くなると思ったんだろう。
「おはよう。急に来てくれてありがとう。今日はよろしくね」
店長は人当たりのいい笑顔で接してくれた。
「これベストとネクタイね。ここで着替えて。男子は更衣室ないから」
めちゃくちゃ広い男子トイレで、すでに工学部が着替え始めていた。
「今日さ金曜日だろ。結構忙しいと思うんだけどバニーさんが一人休んじゃって人足りないんだよね」
「バニー?」
「そう。後で店長が説明してくれると思うけど、この店の給仕は男はウェイターで女の子はバニースーツなんだよ。時給は倍以上違うけどね」
バニースーツを着ている人が同じ職場にいて精神を保っていることに驚きを隠せなかった。
「すご」
「最初はね。まあ。当たり前の景色になるよ。それどころじゃなくて」
僕はもう自信を持てなくなっていたが時間だけはどんどん過ぎていく。
「ほら。蝶ネクタイ今からやるから一緒にやって」
工学部のネクタイを参考にしながら、鏡に映る自分と格闘しなんとか形になったような気がしたが、まったくそうではなかったらしい。
「不器用じゃね?」
工学部がグイグイと引っ張り蝶ネクタイを理想の形に整える。
「数学に手先の器用さは必要ないからね」
「いうね~。ほら、これも。」
使ったことのないジェルを渡される。工学部の見よう見まねで髪をかき上げる。出したことのないおでこが気恥ずかしい。髪がまとまったところに工学部がスプレーをかける。ウェットに見える髪がガチガチに固まった。
「へー。似合うじゃん」
「工学部に言われてもな」
トイレから出ると、店長が店の入り口のほうで僕たちに手招きをした。
「ようこそ。ミラノへ!」


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