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「君の翼に夢をのせ」ることの是非

十年とすこし前の誕生日にプレゼントしてもらったウォークマンには、もう何年も新しい曲を入れていないしそもそも持ち歩いていない。名前に偽りありの媒体にしてしまって申し訳なく思う。スマートフォンにDLしてある曲もたまに寝付けないときに枕元で流すくらいで、出先では殆ど聞くことがない。学生時代に比べてめっきり音楽を聴く機会が少なくなったなと思う。それが世間の他のおとなたちもそうなのか、私自身に限ったことなのか、正直よくわかっていない。

学生の頃も、流行りの曲を次々とというタイプではなかったが、熱狂的に信仰していた幻想楽団と、そこからの流れで好きになったバンドがあったのでその2団体の関わる曲をとにかく片道二時間近い通学時間のあいだずっと聴いていた。ガラケーのLISMOにたくさんプレイリストを作った。なので、その頃浴び続けたフレーズは耳から五臓六腑に染みわたり今も留まり続けていて、時折わたしの人生のその「瞬間」にぴったりはまる歌詞の一節を差し出してきたりする。

そのなかでも、誰かを、ナニかを応援するときに浮かんでくるのが
 ♪君の翼に夢をのせた~
というフレーズだ。ちなみに曲そのものに対しては、個人的には父性的なモノから子々孫々への激励のようなニュアンスを感じ取っている
(ほんとうのところはどうなのか知らない)
(この曲について語ってるのをあんまり聞いたことがない)
(ライブでも一回くらい聴きたかったな)
(わたしが現場に行かなくなってからやったとかやってないとかきいたようなきかなかったような)
(オフ会のためにカラオケ動画を自作してもっていったらその打ち上げのカラオケオールしてる最中(※深夜)に配信されてることに気付いてこんなことある??とタイミングに驚愕した思い出深い一曲)
ので、前後の歌詞は無視する。

応援する。「好き」と「ファン」は容易く繋がるけれど、それと「応援」は必ずしも一本の線で結ばれてはいないとわたしは思う。
小学生のときに好きな漫画があって、その作者である漫画家さんのファンだと自分で思っていたけれど、その人を応援するという意識はなかった(単行本は買ってもらっていたけど)。中学生ときに好きだったドラマも、高校生のときに好きだった小説もそうだ。コンテンツへの好意と、そのおおもとへのリスペクトがあってもそれはそういう職業のひとで個人であるという認識に至っていない。一方で運動会で友人に声援を送る瞬間、わたしはその子が好きだし応援しているけどファンという訳ではなかった。それはまた別の問題なのかもしれないけど、まあ。

「応援」というのは「好き」なコンテンツの向こう側にいるひとが「ひと」であることを認識するところから始まるんじゃないかなぁとぼんやり思っていて。だから私が明確に「応援」していると感じることができるようになったのは、ハタチのときにあるアーティストに出会ってからだ。
わたしとおなじ人類であるところの「ひと」が、わたしが夢中になるような何かを生み出していて、それがもっといろんなひとに知ってもらえたり、よいとおおもってもらえると、うれしい。CDが出れば深夜のカウントダウンTVのランキングをわがごとのようにワクワクしながら見ていたし、雑誌に取り上げられれば喜んで媒体を買った。純粋な好きという気持ちだけでなく、自分がその賛同者になることでそのひとの叶えたものの片鱗に携われたようなきもちになれる。だから ♪君の翼に夢をのせた というフレーズは、わたしの思う応援の概念にぴたりとはまったんだろうな。

そういう意味では今よく使われている「推し」って言葉のフィット感がたまらなく気持ちいいんですよね。こう掌でずずっと前に押し出してるが如き雰囲気、推進してるよ!という字面。

ただそんなふうにひとの翼にわたしのぶんの夢をのせて、じゃあ自分自身の夢はどこに? といういらぬ質問が心の質問箱に投下される。面倒なのでブロックしたいけれど送っているのもわたしなのではじけない。

わたしに壮大で、エネルギッシュで、スペクタクルな夢はない。
こうして生きていること、それが継続できるように環境を整えること、たのしいことを見つけて反芻し続けること。それは生きる目標ではなく生きる手段なのでは? と賢い方のわたしがたまに気づいてしまうのですこし鈍い方のわたしがその頭から麻袋を被せて綺麗にラッピングして時間を稼ぐ。

稼いだ時間で、この三十数年のあいだに物理的にも精神的にも少しずつコレクションしてきたお気に入りのものを振り返る。ひとつひとつを手に取って撫でる。これに出会うために、まだここに並んでいない何かに出会うために、生きている。これがわたしの夢だ。大丈夫。

麻袋から抜け出したわたしにそれを懇々と伝える。わたしは引き下がってくれたけれど、きっとこれからもきらきらと輝くものへ向かって広げられた翼にわたしが夢のかけらをのせるたびに同じ質問をしてくるだろう。それはひとに「夢」の代理戦争をさせているだけなのではないかと。いやいや、それはひとの夢に対してあまりにも失礼では。ほらいま流行りのクラウドファンディングとかさ、夢乗せ放題じゃん。なにものでもないわたしも籠に充ちる布玉のひとつをぽいぽいできるじゃん。なぜか急に運動会のイメージがでてきたけどそうじゃない。

そういえば以前は、なにものでもない、なにものにもなれなかった、という言葉で自分を認識して勝手に傷つくということがよくあった。あまりにしっくりきているので傷ついているという自覚は無かったのだけれど。
それを肯定できるように思考を転換できたのは、友人との対話の賜物なのだけれどこのはなしはまたいずれ。