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【短編小説】ただ、恐ろしい

 池田優作の平日は職場と家の往復だ。自転車で通勤できるほどの距離だ。片道自転車で十五分、広々とした街路樹が並ぶ通りが気持ちいい。優作は昨日、職場からの帰宅時に事故にあった。車に後ろからはねられたのだった。

 幸いにもケガ一つなかったが、念のため入院することとなった。接触した車の運転手は塾に送迎中の母親で、憔悴しきっていた。

 不幸中の幸いの事故のように見えたが、優作は記憶がすっぽり抜け落ちていたのだ。事故前後の短期の記憶障害なのか、何十年もの過去に遡っての記憶障害なのか、優作自身にもわからなかった。名前も分かる、会社もわかる、ただ家までの道がわからない。家族の顔も思い出せない。

 退院時は家族が迎えに行けないので、メモに書かれた家の住所を頼りにタクシーで帰宅した。
「ただいま」
ドアが開いている。カギを閉めないなんて不用心だ。
「あら、おかえりなさい。もう、帰ってきたのね」
「あなたは?誰ですか」
「もう!やめてくださいよ、妻のミチコですよ」
「私、結婚してたんですね。いやその、事故で記憶が飛んでまして」

 ミチコは優作の荷物を持ち、ランドリーボックスに汚れたシャツや下着を突っ込んだ。

 優作はまるで初めて入る家のように、いや他人の家に窃盗に入った泥棒のように、おそるおそる廊下を歩いた。リビングのドアを開けると、男がいた。
「おかえり」
「えーっと、君は誰?」
「お父さん!僕はリョウタロウですよ」
「まだ、お昼前だけど、学校はどうしたの?」
 遼太郎はテレビのリモコンをテーブルに置いて、ソファーから立ち上がった。
「今日は学校の創立記念日ですよ」
 何か妙な違和感を感じる。何だろう、言葉にできない感覚、体全体をモヤのように覆っているような気がした。

 この家の住所が書かれたメモを開いて見た。これは誰の字だろう。誰が書いたのか、誰からもらったのか、忘れてしまったのか。記憶障害ってやつなのか、と優作は記憶の曖昧さを恐れた。

 ミチコはお昼の用意をすると言って、キッチンで料理を始めた。
「あなたの好きなチャーハンを作りますね」
「私はチャーハンが好きなのですね」

 優作は嬉しそうに返事した。自分が好きな食べ物が分かるということ、逆を言えば自分が好きな食べ物を忘れていたということだ。
「父さんはチャーハンでご飯を食べるほど、チャーハン好きですよ」
 リョウタロウは立ったままの優作をソファーに座るように促した。
 オットマン付きのコーナーソファーだ。見渡せば随分立派な家だ。こう言っては何だが金目のものがあるというか、ん?なんだこの感覚、優作は金目の物を感じる自分に新たな違和感を感じていた。
「母さん、俺も手伝いますよ」
「あら、りょ、リヨータ。ありがとうございます」

 何か違和感を感じる。アイツはリョウタロウじゃなかったっけ?俺の記憶違いか?ん?

 優作は立ち上がった。
「ちょ、ちょっと父さんは座っててください」
「そうよ、座っててください」
「いや、トイレに」
 優作は廊下に出ようとした。
「トイレの場所わかる?」
「あぁ、間取りはわかってる」

 トイレへと向かった瞬間、リョウタロウが背後から襲いかかってきた。右手にはサバイバルナイフを持っている。大きく振りかぶるリョウタロウの姿がリビングのドアのガラスに映っていた。優作はサッとかわすと、リョウタロウの右手首を流れるように掴んだ。そのまま、リョウタロウの肩にナイフを突き刺した。抜けば血が噴き出るだろう。

 ミチコがアツアツに炒めたチャーハンをフライパンごとぶん投げてきた。
 優作はリョウタロウを盾にして、フライパンを受け止めた。そのまま、盾となったリョウタロウを蹴とばし、ミチコを転倒させた。キッチンは袋小路になっている。逃げられない。

 リョウタロウは息も絶え絶えだ。優作はリビングにあった針金ハンガーを使ってミチコを後ろ手にして拘束し、ソファーに座らせた。
「あの、あなたは、その、私の妻ではない?」
「うるせぇ、てめぇ、このクソ黒木!なにが妻だ!!!」

 ミチコの悪態が収まらない。リョウタロウはナイフを抜いてはいないが、血が滲み出ている。辛そうだ。
「クロキ?俺の苗字か?俺は池田優作ではないのか?」

 優作はミチコの髪を掴み、引っ張り上げながら尋ねた。尋問しているような気分が優作を高揚させた。
「てめぇは、ただの黒木だ。苗字もなんもねぇ。コードネームだ。バカクソ野郎」

 優作は、今にも気絶しそうなリョウタロウを同じく針金ハンガーで拘束しながら質問した。
「リョウタロウさん、あなたたちはその誰なんですか?」
「すっとぼけ……るな。ハァハァ……お前はぁ、ただの殺し屋だろうに……」

 優作はリョウタロウの頭を踏みつけながら、タバコに火をつけた。
「そうか、そうだった。この違和感、同じ殺し屋が近くにいる違和感でした。思い出しましたよ。」

 自転車で毎日職場まで十五分、自宅から職場がまでの範囲で請け負う殺し屋。それが池田優作の職業だった。フリーランスの殺し屋家業に不安を覚えて、転職を考えていたというところまで、思い出していた。だが、何の仕事に転職しようとしていたかまでは、まだ思い出せない。

 優作はタバコを消した。ミチコとリョウタロウにとどめを刺そうとしたその時だった。消音・サイレンサー付きの銃口から発射された銃弾は、優作の頭部の左端を打ち抜いた。

「大丈夫?あなたたち、ずいぶん危なかったわね」
「遅いですよ、隊長!」
 リョウタロウは苦悶の表情を浮かべていた。
「隊長、これ解いてもらえますか?」
 玄関から声がする。
「ねぇー、ママ。はやくぅ、塾遅れちゃう」
「ハイハイ、待ってて。もうすぐ行くからぁ」
「た、隊長、塾の送迎中でしたか」
「そうよ、まぁアタシが最初にキッチリ黒木を轢き殺してたらね、こんな手間いらなかったのにね。ごめんねぇ」

 ミチコはやっと自由になった両手をさすりながら、リョウタロウの止血を急いだ。
「黒木、やっと仕留めましたね。病院で仕留めてくれたらラクだったのに」
「無理よ、アイツ、記憶喪失も部分的だったし。いつ完全に記憶が戻るか、戻ったら怖いモノ、アイツ」

 リョウタロウは息を切らしながら隊長の側まで近づいた。
「じゃぁ、黒木は……」
「そうよ、アンタたち二人がこの家に居たことも知ってたし、病院でアンタたち二人を暗殺してほしいって、逆にオファーしといたのよ」
「誰がですか?」
 ミチコは隊長におそるおそる聞いた。

 隊長は玄関でヒールを履きながら、
「アタシよ。アンタたちには悪いけど、おとりにさせてもらっちゃった」
「どういうことですか?」
「うまくいけば、アンタたちが黒木を殺してくれる。万一ミスっても、アタシが隙をついて今みたいに、殺せばいいし」

 あれほど手練れの黒木が、いとも簡単に隊長のサイレンサーで殺された理由は?「自分を車で轢いたあの女が、なぜここに!」という一瞬の驚き、つまり「隙」が産まれたせいだ。ミチコはしかめっ面で考えを巡らせた。

 隊長は、玄関で脱いだハイヒールを履き、子どもの待つ車に乗り込んだ。

 ミチコとリョウタロウは絶命した黒木を車に乗せ、部屋中の血を拭き取り、家を出た。
「ミチコさん、あの家、誰の家なんですかね?」
「知らない」

 ミチコはタバコに火をつけた。
「知らない方がいいよ、きっと」
「ちょっと、カッコつけてないで、早めに病院連れて行ってもらえます?また血が……」
「バカ、普通の病院なんか行けるかよ。花満のモグラのところで縫ってもらいに行くから」

 ミチコはアクセルを踏み込んだ。花満のモグラはすぐ近くの雑居ビル一階だ。リョウタロウを担ぎ、モグラに預けるとミチコは、黒木の死体を確認するために駐車場に戻った。いやな予感がする。ゆっくりとトランクを開けた。開けながら、銃を持ってくるんだったと後悔していた。

 トランクは空っぽだった。黒木は忽然と姿を消していた。ミチコは後ずさりしながら、背後にも気を付けて雑居ビルへと戻った。黒木が生きてる?確かに死んだはずだ。頭を撃ち抜かれてるはずだ。トランクに入れたはずだ。トランクからは脱出できないはずだ。

 すべては、「はず」だった。

 ミチコは息を切らしながらモグラのいる雑居ビルの診療所のドアを開けた。

 そこには、隊長と黒木、そして小さな子ども、治療を受け終えたリョウタロウがいた。
「おつかれさま、おつかれさま」
小さな子どもの声だった。
「あ、あの」

 ミチコは状況がつかめなかった。
「えっとぉ、ミチコちゃんは六十三点で不合格ね」
「でぇ、リョウタロウくんは十二点で落第よ」
「クロキは七十九点で追試」

 ミチコは隊長を凝視した。
「アナタたちさぁ、黒木が死んだのちゃんと確認した?トランクに入れたあと、ちゃんと閉まってるの確認した?」
「そ、それは」

 ミチコは戸惑いを隠せなかった。
「ねぇ、ママ。この子たち、ちゃぁんと補習させないとぉだめだよぉ」
「ママって呼ぶのやめてくださいよ。ボス」
「ぼ、ボス?」
 ミチコはリョウタロウの様子を見た。リョウタロウは先に聞いてたのか、驚いていない。

「ミチコちゃん、アンサツシャってのはさぁ、ちゃんとカクニンが必要なんだよ。リョウタロウはそれ以前の問題、ウシロからナイフなんて、ギャクシューフラグ立ちまくりだっつーの。肩までさされちゃってさぁ~」
「ボスのご指摘いつも的確ですよね。ごめんねぇ、昇進試験、させてもらってた。来年さぁ、新人はいってくるじゃん。アンタたちもせめて主任とかリーダーとかなっててほしいじゃん」

「ク、黒木は?」
 ミチコは黒木がなぜここにいるのかまだよくわからなかった。
「黒木は、中途採用試験よ」
 隊長はボスを抱っこしながら、悪気のなさげな笑顔で事情を説明した。
 ミチコ・リョウタロウ・黒木は、それぞれ、診療所のドアを開け出ていった。

 黒木はタバコに火をつけながら、ミチコに尋ねた。
「これからどうするんですか?」
「辞める一択でしょ」
グゥウウウと、黒木の腹が鳴った。
「メシ、食いにいきませんか?三人で」
「黒木さん、俺の肩刺したんだから、奢ってくださいよ」
「私も頭打ったし、髪も引っ張られたし。痛かったんだから」
「いやいや、俺なんて頭たれたんですよ。車にも轢かれたし」
「まぁ、生きてるからいいじゃないですか。ってか、黒木さんなんで死んでないんですか?」
ケガが浅かったせいかリョウタロウの口ぶりが軽い。

 しばらく無言の時間が流れたあと、黒木がつぶやいた。
「そういえば、お二人ともどうして敬語だったんですか?妻と息子の設定だったんですよね?」

「いや、それは二人とも」
 リョウタロウが口ごもった。
「人見知りなのよ」
 ミチコが恥ずかしそうに言った。

しばらく沈黙が続いた後、三人はタイミングを計ったように同時に
「こわっ」
とつぶやいた。
 
三人は駅前のファミレスに向かって歩いて行った。もう夜明けが近づいていた。
(おわり)
 

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