起業家だった父2
私の父は起業家の人でした2 1からの続きです。
40代になっても私の父は起業家の人でした。商売への情熱が冷めることはありませんでした。
ラーメン&焼肉の飲食店を開業し、それが爆当たりした後、父は2店舗、3店舗と事業を拡大していきました。1店舗目の店長は母が、2店舗目の店長は父が、3店舗目は父の下で10年以上働いていた中国人の鄭さんが店長をやりました。AM11時開店、昼休憩なしでAM5時まで営業という、なんと18時間営業の形態でしたから、午前の部と夜の部で社員やアルバイトを分けることになりました。しかし、母・父・鄭さんは合間に休憩を挟みながら、特に母は主婦業も兼任しながら、朝から朝まで仕事をしていました。(母は後に仕事のしすぎで体調が悪くなり、夜の部は別の店長を立てました。)
従業員の数は正社員・アルバイトをあわせて50人程になり、足利の中小レベルの飲食店では最大規模の会社になりました。今でもよく覚えているのが3か月に一度、企業謝恩会を開き、会社全員でボーリング大会→飲み会を実施していてました。ボーリング大会だけ、私も参加をしました。また、父は極度の下戸でお酒を一滴も飲めない人でしたから、飲み会にはいかず、鄭さんに50万を渡して飲み会は従業員だけで行かせて、自分は麻雀を打ちに行っていました。昭和ならではの光景でした(笑)
一方、商売繁盛の裏にはマイナス要素もありました。私は当時小学校低学年でしたが、父は毎日8時に家を出て、毎日深夜3時頃に家に帰ってくる生活でした。飲食店という商売な以上、土日も営業をします。そして、週に1度の定休日である月曜日はドロのように眠っていました。また、母も1店舗目の店長と主婦業を兼任していましたから、精神的にも余裕が無く、父と母のケンカが絶えなかったのを幼心に覚えています。父母がどちらも家にいない時間が多かった為、私は一人で家の中で過ごすことが多くなりました。私のあまり人と関わらないで生きる「個人主義」の性格は、恐らくこのころに確立されていったのだと思います。
このころ、日本経済はバブルが崩壊し、大変な不況になっていました。焼肉という比較的高級な外食市場にも悪影響がでるか?と父は考えていたそうですが、結果的には杞憂に終わりました。それはなぜかというと、個人経営の安価な焼き肉店というのが足利市にはほとんど無く、選択肢が父の店しかなかったからです。外食の頻度は少なくなっても、たまの贅沢にウチにきてくれる。そんな常連のお客様が根付いてくれたわけです。父はこのとき「競合が少ない商売は勝ちやすい」ということを実感したそうです。飲食店という産業は「超レッドオーシャン」市場です。しかし、例えば当時は肉の仕入れが難しかったという要因があり、焼肉店の数が少なく、競合が無い状態で商売ができたわけです。「レッドオーシャンの中のブルーオーシャン」というものも存在し得るのだ、ということを、父のこの話を聞いて感じました。
飲食事業は継続して好調でしたが、起業家である父は「もっともっと色んな商売をしたい!」と常に儲かるビジネスを探しているようでした。1990年ごろ、父はダイヤルQ2事業に手を出しました。
ダイヤルQ2は40代以上の人間だったら「よくないイメージ」として知っている人も多いと思います。ダイヤルQ2とは、NTTが提供するサービスで、ある番号に電話をかけるとアイドルやジャニーズの生音声(もちろん録音)が聞けたり、アニメのボイスドラマのようなものが聞けるという、「有料情報サービス」のことです。NTTの当初の想定としては、ニュース速報や、ファンクラブ会員などに向けた有料情報提供サービスを考えていたようです。しかしほどなく成人向け情報提供業者が目をつけ、課金料金上限一杯の3分300円という料金を設定し、男女間のわいせつな会話・音声の聴取サービスやツーショットダイヤル番組、テレフォンクラブ、伝言ダイヤルを提供しだします。
なぜ「よくないイメージ」かというと、アホ程儲かりまくるので暴力団の資金源になっていたからです。また、援助交際目的の利用が次第に増え、少年非行や未成年相手の買春の温床になったり、若年者が長時間利用したことによる数十万円から数百万円という高額な情報料が発生し、高額の利用料金請求が社会問題になりました。
父は「エロはめちゃくちゃ金になる!!!」と常日頃から豪語している人間でしたから(言ってる本人は一切そういうのに興味が無さそうでしたが…汗)、成人向けサービスがQ2で流行っていることを聞くと即座に参入。太田市に事務所を借りて、Q2ダイヤルの機器を何十台と設置、稼働し始めました。
成果は一瞬で出ました。1~2か月目は電話番号を広告などに載せて番号を周知させる準備期間でしたが、それでも数百万の利益。3月目以降は機器を増設していって、半年後には毎月2~3000万の利益が入ってくるようになりました。昭和の法令がまだまだ整備がされていなかったころ、商売人の「商売の才能」と「倫理観」は反比例していました(笑) DMMの亀山会長も、何も持ってない人間が「爆発的に儲ける」っていうのは法令が整備されていない「グレーゾーン」を突っ走ることが出来た人だけ、なんて言葉を言っていますが、まさに「グレー」を躊躇うことなく走れる能力を父は持っていた、ということなのだと思います。それが良いか悪いかはともかく(笑)
父は商売の話を私に聞かせることが好きでした。小学2年生ぐらいの自分に、
「Q2ダイヤルっていう奴をお父さんはやってる。お父さんがもってる番号に電話がかかってくると、電話をかけてきた人はエッチな音声が聞ける。それを1分聞くと100円お父さんが儲かる。それを30台もってる。一日中それらが切れることなく稼働してるとしたら、さて、お父さんは一日でいくら儲かるかな~?」
なんてことを言ってくる人間でした。今思えばとてつもなくサイコパスです。しかし、自分も自分で早熟な子供で、「1分で100円で30台だから3000円!1時間で18万円!24時間で432万円!」と、楽しそうに答えていました。くもん式に通っていたおかげで、小2のころには何ケタの掛け算でもできるようになっていて、父の話を理解することができてしまっていました。(しかし、今冷静に計算してみるとQ2ダイヤル、マジでアホみたいに儲かってたんだな…。NTT側に支払う手数料とか機器のレンタル代とか考えても、本当に1日で100万くらい利益を抜けていたんでしょうね…。)
そんなアホ程儲かったQ2ダイヤルでしたが、暴力団の資金源になっていたこと、売春の温床になっていたことなどを問題視したNTTは、成人向け情報提供業者の撲滅に動きだしました。1990年に父が参入したQ2ダイヤルは、1991年の半ばごろから成人向け情報提供業者は契約の更新が出来なくなり、父のQ2ダイヤル事業もそこで終わりとなりました。
1年強の間に、数億円のお金を稼いだ父でしたが、そのころの父は「お金を使わなくちゃ」という強迫観念に駆られているようでした。数か月毎に高級車を買い替えていました。時には一週間で買い替えることもありました。また、土日になると、飲食店の休憩の合間に1000万程の札束をカバンにつめ、友人や幼い私を連れて競馬場に繰り出しました。「今日はこの金が無くなるまで賭ける!」といって、本当に無くなるまでフルベットしていました。お金をもったまま帰ることはありませんでした。とにかく「お金を使う」ことを目的に行動していました。私は競馬場に連れていかれると数万円のお小遣いをもらい、競売場の出店を全て制覇する遊びとかをやっていました。しかし、特に楽しかった記憶はありません。
そんなことをしていると、金遣いの荒い父のことを誰かが密告したのか、はたまた最初からマークされていたのかはわかりませんが、税務調査が急遽入ることになりました。私は当然同席していたわけではありませんが、当時のことが余程恐ろしかったのか、今でも父はその時のことを克明に覚えており、私に当時の話をしてくれます。飲食事業の方は税理士に任せていたので問題無かったのですが、Q2ダイヤル事業のことを徹底的に追及されました。なんと父はQ2ダイヤル事業の申告をしていなかったのです(汗)。税務署職員は、どのように用意したのか、Q2ダイヤルをやっていた事務所の賃貸契約書の写し、父が競馬場で数千万のお金を賭けていた履歴や写真、匿名での情報提供者の証言、NTTからの料金送付状況など、言い逃れができないレベルの証拠をそろえ、父に突きつけました。父は特大の追徴金を支払うことになり、かなりのお金を使ってしまっていたこともあり、バブル時代に買った株式証券・太田で所有していたテナントの一部などを売却、税金の支払いに充てました。
この時のことは父の中でトラウマとして残り(いや、自業自得だけどね?w)、今後の商売において税金を誤魔化すようなことは一切しなくなりました。また、この時に「お金って使うと無くなっちゃうんだってことに気付いた。」と語っていました。何言ってるんだ?お前?と感じますが、恐らく、商売が上手くいきすぎて「使っても使っても一生お金が増え続けて、お金が無くなっていく感覚が無い」ような感覚に陥っていたのでしょう。こうしたことを考えると、このタイミングで税務署に入られたのはかえってよかったのかもしれません。もう少し年齢を重ねてから入られていたら、多分再起不能になっていたでしょう。
その後、飲食事業もライバルが増えてきたことでめちゃくちゃ儲かるという程でもなくなりました。第3店舗は閉店、2店舗体制で従業員の数も減らしました。それでも十分な稼ぎで店を経営し続けることができていました。また、「お金は使うと無くなる」ことに気付いた父は、その後不動産投資事業を拡大していくことになります。
そんなこんなで、父の起業家としての怒涛の40代は幕を閉じました。
Q2ダイヤル事業の話は、父から聞いた話+自分の実体験としても記憶に残っているので長文になりすぎました(汗
本当は、不動産投資事業に手を出して、それが自分の将来をも決定付けたというところを最初から本題にする予定だったのに、どうしてこんなにも長文になっちまったんだ/(^o^)\ 疲れたのでパート3は気が向いたら!!!
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